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第49話 リノの視線

 人が増えてから、リノは小屋の戸口からあまり離れなくなった。


 前から人の多い場所は苦手だったが、今はそれがもっとはっきりしている。朝の市場裏に顔を出す人間は、毎日少しずつ違う。半日だけ働きたい者、昨日切られたのにまた来る者、ただ様子を見に来るだけの者。足音も、声も、前よりずっと増えた。


 リノはしゃがみ込んだまま、その全部を見ていた。


「お前、今日もそこか」

 荷を担ぎ上げながら、ガルドが言う。


 リノは少しだけ顔を上げた。

「……ここ、見えるから」

「何がだよ」

「……いろいろ」


 それだけ言って、また視線を落とす。


 エルンは帳面を開いたまま、嫌そうに息を吐いた。

「見えるなら、もう少し言葉で共有してください」

「無茶言うねえ」

 ミラが笑う。

「リノにそれ求める?」


 ドグは何も言わず、縄の束を持ち上げていた。


 その朝、新しく来た顔が三つあった。痩せた男が二人と、小柄な女が一人。どれも珍しくはない。下層にはよくいる。腹が減り、寝不足で、仕事を選ぶことのできない人間だ。


 だが、リノはそのうちの一人から目を離さなかった。


 背の低い男だった。愛想は悪くない。返事も早い。荷の持ち方も雑ではない。ぱっと見れば、むしろ使いやすそうに見える。エルンが名前を書かせた時も、男は迷わず名乗った。声も落ち着いている。


 それなのに、リノはずっとその男を見ていた。


 視線に気づいたのか、男が一度だけこちらを見た。リノはすぐに目を逸らしたが、肩の力は抜けなかった。


 カイルがその横に立つ。

「……何かありますか」

 小さく聞くと、リノは少し黙った。


「……あれ」

「誰です」

「……わからない」

「でも、気になる」

 リノは小さく頷いた。

「近い」


 意味は曖昧だった。だが、カイルには何となく分かった。

 何を言うかではない。どんなふうに近づいてくるかを、リノは見ているのだ。

 足の出し方。肩の入り方。手を伸ばす前の間合い。

 そういうものを、リノは言葉になるより先に拾う。


 午前の仕事が始まると、その男はよく働いた。荷を運び、置き場もすぐ覚えた。ガルドも最初は何も言わない。むしろ、昨日来た鈍い男よりましだという顔だった。


 だが、昼前に賃金の話が出たあたりで、男の動きが変わった。


 まだ支払いの時間ではない。ただ、依頼人が報酬の袋をミラに渡しただけだ。普通なら、そこで目の動きは止まる。仕事が終わっていないのだから当然だ。


 けれど、その男だけは違った。


 荷を降ろす手を止めないまま、視線だけが二度、袋へ滑った。荷を運ぶふりをしながら、立つ位置だけが少しずつ報酬袋に寄っていた。声をかけられた時の返事が、急に軽くなる。


 リノが立ち上がった。


 誰も気づかないほど静かだったのに、カイルだけはその動きを見た。リノは報酬袋のそばへ行ったのではない。袋を持つミラと報酬袋に近づこうとするその男の間を横切るように、縄の束を抱えて入り込んだのだ。


 わざとらしくはない。ただ、通るべきところを通ったようにしか見えない。


 男はそこで一瞬だけ足を止めた。


「……そこ、邪魔」

 男が低く言う。


 リノは振り向かない。

「……ごめん、なさい」


 謝っている声なのに、動かない。縄の束を抱えたまま、そこにいる。


 ガルドが眉を寄せた。

「何やってる」

「……濡れるから」

 リノは意味の通らないことを言った。


 エルンが苛立ちかけたが、その前にカイルが口を挟む。

「裏に回した方がいいかもしれません。今、道が詰まってるので」


 それだけで、流れが少し変わった。ミラは袋を持ったまま半歩下がり、男は舌打ちを飲み込んで荷へ戻る。リノはようやく縄を持って裏へ入った。


 昼の支払いが終わったあと、ミラが小さく言った。

「今の、何?」

 リノは答えない。ただ戸口に戻って、またしゃがみ込んだ。


 代わりにドグが、短く言った。

「近づけたくなかったんだろ」

 リノは少しだけ肩を縮めた。

「……たぶん」


 エルンは帳面から目を上げる。

「根拠は」

「ない」

「ないのに動いたんですか」

「……でも、嫌だった」


 それでは説明にならない。エルンの顔にはそう書いてあった。けれど、ガルドは報酬袋の方を気にしていた男を一瞥し、鼻を鳴らした。


「まあ、近づきすぎではあったな」


 ミラが笑う。

「危ないの、あんたの方が先に気づくんだ」

「……気づくっていうか」

 リノは言葉を探すように黙った。

「……なる前に、分かる」


 カイルはその横顔を見た。


 人が増えれば、働けるかどうかだけでは足りない。危ないかどうか、壊れかけているかどうか、近づけない方がいいかどうか。置いていい者かどうかまで見なければならない。


 帳面に名前や仕事は書けても、危うさまでは拾えない。

 ガルドの目でも、エルンの理屈でも、いつも拾えるわけではない。


 だが、リノは拾う。


 言葉にはならない。自分でも説明できない。それでも、壊れる前の歪みだけは、誰より早く見てしまうのだ。


 その日の帰り際、ガルドは新しく来た三人のうち、背の低い男だけを次の日の名簿から外した。


「理由は」

 エルンが聞く。


「何となくだ」

 ガルドはぶっきらぼうに言う。

「置くなら、まだ別の奴だ」


 エルンは納得していない顔のまま、帳面に手を入れなかった。


 戸口の脇では、リノが膝を抱えて座っている。大勢の中にいるのは、まだ落ち着かないままだ。けれど、だからこそ見えるものもあるのだろう。


 小屋の前には、今日も人が集まる。

 その中には、置いていい者と、置かない方がいい者が混じっている。


 リノはそれぞれの危うさを、うまくは言えない。

 ただ視線だけで、少しずつ示し始めていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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