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第45話 足りない帳面

 人が増えると、先に足りなくなるのは手ではなかった。


 朝の市場裏で、小屋の前に集まる顔ぶれは日ごとに変わる。残る者もいれば、来なくなる者もいる。昨日は使えた者が今日は消え、昨日は鈍かった者が今日は最後まで手を止めない。そういう入れ替わりが増えるほど、エルンの眉間のしわは深くなっていった。


「合いません」


 昼前、帳面を二冊並べたまま、エルンが低く言った。


「何がだ」

 荷を下ろし終えたガルドが水を飲みながら聞く。


「払った額と、働いた分です。朝の荷降ろしで二人分、午後の片付けで一人分、記録と実際がずれています」

「払ったのが多いのか、少ねぇのか」

「両方です」


 ガルドが露骨に嫌そうな顔をした。分からない話を聞く時の顔だった。


 小屋の中では、壁際に古い箱を積み、縄や板を寄せた隙間で、エルンが帳面を広げていた。もともと六人ぶんの仕事を回すための記録だ。依頼、荷、使う道具、払う金。それだけなら、一冊でどうにかなっていた。


 だが今は違う。


 その日だけ入る者がいる。途中で抜ける者がいる。半日だけ働く者もいる。誰に何をやらせ、どこまで終わって、いくら払うのか。その全部を頭だけで繋いでおくには、もう人が多すぎた。


「名前が似てるのも面倒です」

 エルンが苛立ったように言う。

「ヤンが二人、ロクが一人、ロクと名乗ったのに別の日はロクスと言った者が一人。どれが同じ人間か、毎回確認が要る」


「偽名混じりなんじゃない?」

 ミラが戸口で笑う。

「下の連中なんてそんなもんだよ」


「そんなもんで済むなら、帳面はいりません」

「でも、そんなもんなんだよ」


 言い返しながらも、ミラも少し困った顔をしていた。人を連れてくる側として、曖昧さが増えれば仕事も揉めると分かっているのだろう。


 ドグは壊れた木箱を直しながら、ちらりと帳面を見た。

「印つけりゃいい」

「印?」

「名前じゃなくて、手だの足だの、分かるとこ」


「家畜の管理ではないんですよ」

 エルンは即座に切り返したが、その手は止まった。


 カイルはその横で、今朝の帳面を覗き込んだ。細かい字が隙間なく並んでいる。誰が来たか。何をやったか。途中でどこへ回したか。払った額。未払い。次も使うかどうかの小さな印。エルンが一人で抱えるには、もう多い。


「……分けた方がいいかもしれませんね」


 カイルがそう言うと、エルンが顔を上げた。

「何をです」


「人と仕事です。来た者を書く帳面と、依頼を書く帳面。今は両方が一つに入ってるので」

「そんなことは分かっています。分ければ書く量が増える」

「でも、探すのは減ります」


 エルンは黙った。嫌そうな顔のまま、考える時の沈黙だった。


 外では、今日来たばかりの若い男が、昨日からいる中年に声を荒げていた。

「俺が先に運んでたろ」

「こっちは片付けを頼まれてる」

「そんなの聞いてねぇよ」


 誰に何を振ったのかが曖昧だと、こうなる。


 ガルドが舌打ちして立ち上がりかけた時、エルンが先に声を飛ばした。

「待ってください。今のは私の落ち度です」


 珍しく、きっぱりした声だった。


 外に出たエルンは、二人を睨むでもなく見た。

「朝の荷はあなた、片付けはあなたです。次からは、終わるまでは別の仕事に手を出さないでください」

「そんなの聞いてねぇ」

「言ってませんでした。だから今言いました」


 そこで言い淀まないのが、エルンらしかった。理屈に穴があれば、自分の落ち度も認める。だが、その代わり次からは詰める。


「……じゃあ、次からは最初に言えよ」

「言います。書きます」


 その一言に、カイルは少しだけ目を細めた。


 書く。言うだけではなく、書いて残す。そこまで来れば、もう六人だけの噛み合わせではない。外から入ってくる者に合わせて、形を変え始めている。


 昼過ぎ、エルンは古い帳面を一冊閉じ、新しい紙束を取り出した。


「依頼帳と、人足帳に分けます」

 嫌そうな顔のまま言う。

「依頼は荷、時間、場所、支払い。人足は名前、顔、何ができるか、何をやらせたか。少なくとも、それだけ分かれていれば、今よりはましです」


「増えたな」

 ガルドがうんざりした声を出す。

「帳面がです」

「そうじゃねぇ。面倒がだ」


 ミラが笑った。

「でも、要るんでしょ」

「要るから腹立つんです」


 ドグは釘を打ちながら、ぼそりと言った。

「増えたってことだ」


 それは、その通りだった。


 人数が増えた。仕事が増えた。揉め事も増えた。だから、曖昧なままでは回らない。誰が何をしたのか、誰に払うのか、どこで止まったのか。それを残さなければ、この場所はすぐに崩れる。


 リノは戸口でしゃがんだまま、新しい帳面をじっと見ていた。

「……書くの」

「書きます」

 エルンが答える。

「書いておけば、消えたのも分かるので」


 その言い方に、リノは少しだけ目を伏せた。消える者が多いのは、たぶん彼女がいちばん知っている。


 カイルは新しい帳面に最初の線が引かれるのを見ていた。


 まだ組合でもない。店でもない。ただの仕事場だ。けれど、ただ人が集まるだけではもう足りない。誰が来て、誰が残り、何をやったのか。その流れを留めるものが要る。


 足りなかったのは人手だけではない。

 それを抱えるための、形だった。 

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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