第36話 締め付ける側
名前のない仕事場に、人が集まり始めてしばらくすると、目に見えないやりにくさが増えた。
最初に起きたのは、釘が来ないことだった。
「昨日頼んだ分が、まだ来てません」
小屋の前でエルンが帳面を見ながら言う。
「廃材だけでは足りない補修が二件あります。このままだと、片方は断るしかありません。」
ドグが木箱の横板を指で弾く。
「代用品はある。だが長くは保たねぇ」
「長く保たなくても、今日を越えればいい仕事もある」
ミラが言う。
「問題は、昨日までなら普通に来てた釘が、今日だけきれいに来ないことだよ」
偶然ではない、と誰もが分かっていた。
午前のうちに、もう一つ重なった。
市場の南側へ入れるはずだった荷が、受け渡し先で「今日はもう別に頼んだ」と言われたのだ。話を持っていったのは確かにこちらだった。だが一足先に、似た条件で横から仕事を掻っ攫われる。
「横流しですね」
エルンの声は冷たかった。
「金額を少し下げて、先にもっていかれています」
「露骨だねえ」
ミラが苦笑する。
「こっちが拾い始めた仕事だけ、妙に早く埋まる」
「殴るか」
ガルドが言う。
「誰をです」
エルンが即座に返す。
「釘を止めた相手も、仕事を横に流した相手も、表には出てきていません」
「面倒だな」
その一言に尽きた。
殴る相手が目の前にいれば、ガルドは早い。だが今回は違う。足りないものだけが増え、仕事だけが細く削られていく。露骨な妨害ではないから、文句を言っても言い返される余地がある。
カイルは小屋の前に立つ人の顔を見る。
昨日まで来ていた果物売りの女は、今日は少し距離を取っている。昼から来ると言っていた人足も、姿はあるが近づいてこない。誰かに止められたのか、様子を見ているのか、その両方かもしれない。
「信用を削りに来てる」
ミラが小さく言った。
「仕事がない、物も揃わない、人も足りない。そう見せたいんだろうね」
「事実、揃っていません」
エルンが帳面を閉じる。
「今のままでは、期待だけが先に膨らむ。崩れれば一気です」
ドグは黙ったまま、手元の細い鉄片を曲げて留め具を作っていた。新品の釘がなければ、別の形で留めるしかない。言葉より手の方が先に動く男だった。
そこへ、昨日見かけた人足の男が、おずおずと近づいてきた。
「……悪い。今日は入れねぇ」
「何で?」
ミラが軽く聞く。
男は視線を逸らす。
「別に。向こうで先に声かけられただけだ」
「どっちに?」
「西通りの……その、まとめてる方」
それで十分だった。
名前を言わなくても分かる。市場裏から仕事を繋ぐ流れを、面白く思っていない連中だ。
「脅された?」
ミラが続ける。
「そこまでじゃねぇよ。ただ、こっち来るなら次は使わねぇって」
男は困ったように頭を掻いた。
「俺も食わなきゃいけねぇから」
「それでいい」
カイルは思わず口を開いていた。
「無理に来なくていいです」
男は驚いたようにカイルを見たが、すぐに曖昧に頷いた。
責められないだけで、少し楽になる顔だった。
ガルドが低く唸る。
「取り上げる気かよ」
「全部じゃない」
ミラが言う。
「全部止める気なら、もっと露骨に来る。今は細く削ってる。『あそこは最近うまく回らない』って空気を作りたいんだ」
その言い方は、嫌になるほど正確だった。
午後になると、さらに分かりやすくなった。
注文していた縄は半分だけしか来ない。来た分も質が悪い。荷を預かるはずの場所では「今日は置く場所がない」と言われる。昨日までなら通った話が、今日は一つずつ微妙に詰まる。
リノはその間、ずっと小屋の端で黙っていた。
誰も指示していないのに、質の悪い縄を短く切り分け、使える部分だけを束ね直している。ドグはその隣で、廃材から留め具の代わりになる金具を起こしていた。
「……露骨じゃないのが、一番面倒ですね」
エルンが言う。
「失敗しても相手のせいだと言い切れない」
「だから効くんだろ」
ガルドが吐き捨てる。
カイルは、人が集まっては去る小屋の前を見た。
ここへ持ってくれば何とかなる。生まれたその期待を、相手は潰したいのだ。
暴力ではなく、遅れと不足で。怒鳴る理由すら与えないまま。
だが完全には止まっていない。
釘が来なければドグが別の形で留める。
縄が悪ければリノが使える長さに分ける。
人足が減れば、ミラがその日のうちに別口を拾う。
エルンは遅れを計算し、ガルドは文句を飲み込みながら人一倍働く。
削られても、まだ崩れない。
「……潰しに来てるな」
ガルドが小さく言った。
「ええ」
エルンが頷く。
「しかも、こちらが正面から怒れば、それだけで向こうの勝ちです」
「気に入らねぇ」
「気に入る必要はありません。抜け道を探します」
その言葉に、ミラが口元だけで笑った。
「やっと慣れてきたね、エルン」
「慣れたくはありません」
日が傾き始める頃、小屋の前にまた一人、荷を抱えた女が立った。少し迷った顔をしていたが、結局こちらへ歩いてくる。
まだ終わっていない、とカイルは思った。
削られても、遅らされても、それでもここへ来る足は残っている。
なら、相手はまだ締め切れていない。
市場裏の空気は確かに悪くなっていた。
だがその濁りの中で、名前のない仕事場はまだ息をしていた。
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