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第35話 名前のない仕事場

 次の日の朝、市場裏にはいつもより早く人がいた。


 まだ空気の冷たさが残る時間だというのに、小屋の前には荷車が一台、壁際には二人、少し離れた場所には腕を組んだ男が一人、所在なさげに立っている。誰も大声では呼ばない。ただ、ここで待てば何かしら仕事やその手がかりが得られるのではないかと、探るような目だけが集まっていた。


「……増えたね」

 ミラが小さく笑う。


「邪魔だな」

 ガルドはそう言いながらも、追い払おうとはしなかった。


 ドグはいつも通り、小屋の脇で昨日の補修箇所を見ている。エルンは帳面を開いたまま、集まった顔ぶれを数えていた。リノは荷縄の束の横にしゃがみ込み、まだ使える短い切れ端を分けている。カイルはその全体を、少し後ろから見ていた。


 仕事を頼みに来た者もいれば、仕事を探しに来た者もいる。

 荷を頼みたい商人。

 半日だけでも稼ぎたい人足。

 壊れた箱をどうにかしたい小商い。

 理由は違っても、足が向く先だけは同じになり始めていた。


「あの」

 最初に声をかけてきたのは、小柄な果物売りの女だった。抱えていた木箱の角が割れている。

「これ、今日中に市場の向こうまで持っていきたいんだけど……途中で底が抜けそうで」


 ドグが一瞥する。

「抜けるな」

「やっぱり?」

「板を当てりゃ保つ」


 それだけで、女の顔が少し明るくなった。

「金は払うよ。高くなければ」

「高くはならねぇ」

 ガルドが先に答える。

「その代わり急ぐなら今決めろ」


 横からエルンが口を挟む。

「荷の量、距離、時刻を先に確認してください」

「細けぇな」

「必要です」


 そのやり取りを見ていた、壁際の男が今度は口を開く。

「じゃあ俺は昼からでもいい。荷運びならできる」

「どこの人だい?」

 ミラが軽く訊く。


「どこでもねぇよ。今は空いてるだけだ」


 嘘ではなさそうだった。少なくとも、すぐに面倒を持ち込む顔ではない。

 ミラは少しだけ笑って頷く。

「なら、待ってな。回せる仕事があれば使う」


 それだけの言葉で、男は露骨に肩の力を抜いた。


 カイルは気づく。

 まだ誰も、この場所の名前を口にしていない。

 それでも人は、ここを一つの場所として見始めている。


 荷を直せる。

 運ぶ手もある。

 段取りを決める者がいる。

 口を利ける者がいる。

 すぐ怒鳴るが、前に立つ男もいる。


 足りないものがあっても、とりあえずここへ持ってくれば、何かしら形になる。

 そんな期待だけが、ゆるく積み上がっていた。


「勝手に増えるなあ」

 ミラが呟く。

「まだ看板も何もないのに」


「看板なんかいらねぇだろ」

 ガルドが言う。

「仕事があるなら来る。ねぇなら来ねぇ」


「そう単純でもありません」

 エルンは帳面から顔を上げない。


「人が集まるということは、ここへ持ち込めば話が進むと思われているということです。期待も混じる。失敗すれば、一気に崩れます」


「崩さなきゃいい」

「だから、そのために考えているんです」


 果物売りの木箱はドグが受け、昼から空いている男はミラが別口の荷運びへ回した。その間にも、もう一人、もう二人と人が立ち止まる。声をかける者もいれば、ただ様子を見る者もいる。


 小屋の前は、昨日までただの溜まり場だった。

 今日も見た目は変わらない。壁は薄汚れ、荷車は軋み、板切れと縄が雑に積まれている。

 それでも、この場所の意味だけが変わり始めていた。


 リノがふいに立ち上がった。

 誰も頼んでいないのに、小屋の脇へ寄せられていた空箱を三つ重ね、通路の端へ揃える。次に縄の切れ端を束ねて脇へ置く。ほんの少し、足元が広くなる。


「……何してる」

 ガルドが訊く。


「通りにくいから」

 リノは小さく答える。

「人、増えたし」


 それだけだった。

 だが、その少しのずれで、人の出入りがしやすくなる。

 来た者が立ち止まり、待つ者が邪魔にならず、荷を持った者が小屋の前まで寄れる。


 エルンがそれを見て、珍しく何も言わなかった。


 昼前には、誰かがこう言った。


「ガルドのところに持っていけば、何とかなるらしい」


 別の誰かが、それに頷く。


「荷が崩れそうでも、あそこなら見てくれる」

「仕事も回してくれるって聞いた」

「名前は知らんけど、あの市場裏の」


 名前はなかった。

 正式な看板も、契約も、札もない。

 それでも、言い方だけはもう生まれていた。


 あそこ。

 ガルドのところ。

 市場裏の小屋の前。


 どれも曖昧だ。だが曖昧なまま通じ始める時点で、もうただの寄せ集めではない。


 カイルはその流れを黙って見ていた。


 誰が決めたわけでもない。

 看板を掛けたわけでも、名乗りを上げたわけでもない。

 仕事が回り、物が直り、人が繋がる。その積み重ねだけで、場所は場所になっていく。


 目立つのはガルドだ。

 名前を覚えられるのも、たぶんあの男だろう。

 それでいい、とカイルは思う。


 見られる場所ができるほど、見られてはいけないものも増える。

 けれど同時に、足場もできる。


 弱い者が一人で立てないなら、立てる場所を先に作るしかない。


 昼の光が小屋の前へ差し込み、人の影が少しずつ重なっていく。

 名前のないその場所は、その日ようやく、ただの溜まり場ではなくなった。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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