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第34話 六人目の意味

 その日の仕事が切れたあとも、エルンの機嫌は戻らなかった。


 市場裏の小屋の前。荷車は壁際に寄せられ、縄と木箱がいつものように積まれている。夕方の薄い光の中で、ドグは無言で荷台の板を外し、昼に見つかった継ぎ目を組み直していた。


 釘を抜き、板を当て直し、傷んだ端を削る。

 言葉はなくても、手順だけで何をしているかは分かる。次に同じ崩れ方をしないよう、形そのものを直しているのだ。


「……最初からそうなっていれば、今日みたいなことは起きませんでした」

 エルンが帳面を閉じながら言う。


「起きたから直してる」

 ドグは顔も上げない。


「だから、その“起きた後”が無駄なんです」

「無駄でも直すしかねぇ時はある」


 そこで会話は切れた。

 エルンは理屈を積み上げる。ドグは形で答える。噛み合わないようでいて、互いに必要なことだけは分かっている。


 少し離れたところで、リノは縄の束をほどいていた。傷んだ部分だけを切り、まだ使える長さを分けている。細い指は速くないが、迷いがない。使えるものと駄目なものを、感覚で選っているような手つきだった。


「それ、任せたの?」

 ミラがカイルの横で小さく聞く。


「任せた、というほどでは……」

 カイルが答えると、ミラは肩をすくめた。

「でも勝手にやるんだよね、ああいうの」


 実際その通りだった。

 ドグは壊れたものを直す。

 エルンは決まった段取りを組む。

 ガルドは必要な場面で前に出る。

 ミラは仕事の匂いを嗅ぎつけて動く。

 だがリノだけは、何をきっかけに動くのかが分かりにくかった。


 必要だと思った時にだけ、半歩ぶん流れをずらす。

 それが助けになることもあれば、段取りを壊すこともある。


「使いづらいな」

 ガルドが木箱に腰を下ろしながら言う。

「だが、いねぇと今日みてぇな見落としは残る」


「見落としはドグが直しました」

 エルンがすぐに返す。

「リノは予定を崩しました」


「崩したから見えたんだろ」

「毎回それをされたら仕事になりません」


 正論だった。

 正しいからこそ、ガルドは面白くなさそうに鼻を鳴らす。


 ドグがそこでようやく口を開いた。

「俺は、壊れた形を直す」

 釘を打ちながらの声だった。

「リノは、固まった流れを崩す」


 全員の視線が、短くそちらへ向く。


「崩す必要がねぇ時まで崩したら邪魔だ」

 ドグは続ける。

「だが、崩れねぇと見えねぇもんもある」


 エルンが少し黙った。

 否定しきれない顔だった。今日、見えていなかったのは実際に自分の方だったのだから。


 ミラが笑う。

「珍しく長く喋ったね」


「うるさい」


 リノはその会話が自分に向いていると気づいているはずなのに、顔を上げなかった。

 ただ縄を切る手だけが、一瞬だけ止まって、また動き出す。


 カイルはその様子を見ていた。


 ドグは形を固める。

 壊れた荷車、浮いた板、緩んだ留め具。仕事が途中で止まる原因を一つずつ潰して、最後まで回るように整えていく。

 だから流れは安定する。誰が見ても、価値が分かる。


 リノは違う。

 きちんと組まれているように見える中でも、崩れそうな場所を先に見つける。

 そして直すのではなく、少しだけずらして流れを変える。

 だから結果的に助かっても、まわりには最初、勝手に壊したように見える。


 正反対だった。

 けれど、どちらかだけでは足りないのだと、カイルは思った。


 ドグのように形を整えるだけでは、やがて相手に手の内を読まれる。

 逆にリノのように流れを乱すだけでは、こちらの仕事まで崩れかねない。

 壊れないように支える手と、相手の計算を崩す手。その両方があって初めて、弱い側は生き残れる。


「……六人目の意味、か」

 ミラが何気なく呟いた。


「意味なんて大げさなもんかよ」

 ガルドは言ったが、少しだけ考えている顔をした。

「ただ、いると面倒で、いねぇと困る」


「最悪の評価ですね」

 エルンが言う。


「違うのか?」

「……違いません」


 認めたくなさそうに、エルンは視線を逸らした。

 その様子にミラが吹き出しかけ、何とか堪える。


 リノはそこで初めて、小さく口を開いた。

「……いない方が、いいなら」


 誰に向けた言葉かは曖昧だった。

 だが全員に聞こえる程度の小ささだった。


「よくねぇから置いてるんだろ」

 ガルドが即座に言う。

「自分から面倒増やしてどうする」


 雑な言い方だったが、リノは少しだけ目を瞬いた。

 拒まれなかったことより、言い切られたことの方に驚いたようだった。


 エルンが小さく息を吐く。

「誤解のないように言っておきますが、僕はあなたが不要だと言っているわけではありません」

「……うん」

「ただ、今のままでは扱いが難しい」

「それはそうだね」

 ミラがすぐに乗る。

「便利な手じゃない。でも、便利じゃない手が必要な時もある」


「便利じゃないならいらねぇだろ」

 ガルドが言うと、ミラは笑った。

「だからガルドは、殴るのは得意でも、仲間や仕事を広げるのは苦手なんだよ」


「何だと」

「事実です」

 今度はエルンまで乗った。


 小さな言い合いが起きる。

 その隙間で、ドグは板を打ち終え、荷台を軽く叩いた。

 鈍いが、安定した音が返る。


「次は跳ねねぇ」

 短い一言だった。


 それを聞きながら、カイルは目を伏せた。


 次は跳ねない。

 だが、それで全部が済むわけではない。


 道具や荷車を直せば、それでうまく回る仕事もある。

 だが相手がこちらを止めようとしている時は、それだけでは足りない。

 今日みたいに向こうが待ち構えている場面では、形を整えるだけでは抜けられないこともある。


 偶然に見える勝ち方は、今はまだ通じる。

 けれど人数が増え、役割が増え、できることが増えるほど、周りもこちらを見始める。

 いつまでも「運が良かった」で済ませられるとは限らない。


 リノの一動きで助かった。

 ドグの一手で崩れが防げた。

 それは事実だ。

 だが事実が重なるほど、偶然は偶然に見えなくなる。


 カイルは、その先を少しだけ想像した。


 誰かが気づく。

 この仕事場は、ただ人が集まっているだけではないと。


 壊れないように整える手があり、相手の読みを外す動きがあり、それが自然に繋がっていると。


 その時、狙われるのはきっと、表に立つガルドだ。

 だが本当に見られてはいけないのは、別のところにある。


「カイル?」

 ミラの声で、思考が戻る。


「……いえ」

 カイルは小さく首を振った。

「少し、考えていただけです」


「珍しいね」

「そう、でしょうか」


 珍しくはない。

 ただ、口に出さないだけだ。


 荷台の修理が終わり、縄の束も分け終わり、夕方の仕事場は少しずつ明日の形になっていく。

 ドグが固めた形の横で、リノが分けた縄が静かに積まれる。


 それはまだ小さな差だった。

 けれどカイルには、その差がもう元には戻らないと分かっていた。


 六人目は、ただ人数が一人増えたというだけではない。

 今までは崩れないように支えることが中心だった仕事場に、相手の計算を崩す役が加わったのだ。

 その分、こちらも扱いを間違えれば危うい。だが同時に、今までできなかった勝ち方もできるようになる。


 弱い者が生き残るための仕事場は、少しずつ別の形へ変わっていく。

 そして役割が増えるほど、隠しておけるものは減っていく。


 市場裏の空は、夕暮れの鈍い色をしていた。

 その下でカイルは、誰にも見られないまま、小さく息をついた。


 六人目の意味は、まだ言葉にはならない。

 だが確かに、ここから先はもう、四人や五人の時と同じ偶然では済まないのだと思った。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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