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第31話 置き場のない者

 次にリノを見たのは、その翌日の夕方だった。


 市場裏の喧騒が少し落ちつき、日中の荷運びがひと段落しかけた頃だった。荷車の軋む音も、人の怒鳴り声も、昼間ほどは多くない。代わりに、仕事を取りこぼした者たちの視線だけが、路地の隅に重く溜まっている。


 ミラが先に気づいた。


「……あそこ」


 顎で示した先、積み上げられた空樽の陰に、リノがしゃがみ込んでいた。膝を抱えているわけではない。ただ、そこに置かれた荷縄の束をほどき、傷んだ部分を切り分けている。勝手にやっているようには見えなかったが、近くに見張る男はいない。


 昨日と同じく、目立たない。

 人の出入りがある場所なのに、そこだけ少し影が濃いように見える。


「何してるんだ、あいつ」

 ガルドが言う。


「荷縄の選り分けかな」

 ミラが目を細めた。

「使えるやつだけ残して、駄目なのは切ってる」


 ドグが少しだけ顔を上げる。

「無駄じゃない」


「褒めてる?」

「事実だ」


 そのやり取りの最中にも、リノは手を止めない。擦り切れた縄を見て、切る。まだ使える部分は別に置く。作業は地味で、誰にも褒められることのないものだった。


 そこへ、通りの向こうから乱暴な声が飛んだ。


「おい、まだ終わってねぇのか!」


 西通り側で雑用頭をしている男だった。昨日、リノを怒鳴っていたのと同じ男だ。近づいてくる足取りは、苛立ちだけでなく酔いが混じっている。昼の仕事が途切れた後で飲んでいたのだろう。


 リノは顔を上げたが、返事をしなかった。


「聞いてんのかよ」

 男はリノの足元に置かれた縄の束を蹴った。

「使えるもんだけ取って、残りは向こうへ持ってこいって言ったろ」


「……こっちは、まだ使えます」

 リノが小さく言う。

「今切ると、足りなくなる」


「足りなくなったら、また別のを持ってくりゃいいだろうが」

「でも――」

「口答えすんな」


 言って、男はリノの肩を掴んで引き上げた。

 強くはない。だが、物みたいな掴み方だった。


 ガルドが動くより先に、ミラが低く言う。

「待って」


「待てるかよ」

「今ここで割って入ると、向こうに口実をやる。『よその仕事に首を突っ込まれた』ってね」


 ガルドは歯を食いしばったまま動きを止めた。

 正しい判断だったが、気に入らないのは顔に出ている。


 カイルは、男の手とリノの肩を見る。

 逃げようとしていない。抵抗もしない。ただ、引っぱられるままに立ち上がって、それでも切り分けた縄だけは落とさないよう持ち直している。


「……居場所、ないんだな」

 ガルドが吐き出すように言った。


 それは同情ではなく、確認に近かった。

 押されれば押されるまま動き、怒鳴られれば黙る。だが雑に仕事をするわけではない。守るべきものが自分ではなく、手元の作業に寄っているような人間だった。


 男はリノを引きずるように連れていき、角を曲がる前にまた肩を押した。リノは壁にぶつかりかけたが、よろけただけで何も言わない。


 ミラが小さく息を吐く。

「やっぱり、ああいう扱いか」


「前からか?」

 エルンが聞く。


「たぶんね。日雇いっていうより、面倒臭いことを押し付けるための人足だよ。誰もやりたがらない雑用、失敗したらそいつのせい、うまくいっても当たり前」

「非効率です」

 エルンが眉を寄せる。

「そういう扱い方をすれば、無駄も増えます。」


「効率で人を扱う連中ばかりなら、下層はもう少しましだろうね」


 その日の夜、仕事を切り上げて市場裏を離れたあと、五人は細い裏路地を通った。近道になるが、人通りは少ない。酒場の裏口や、荷の一時置き場に使われるような薄暗い道だ。


 曲がり角の先で、物音がした。


 鈍い音。

 何かが壁に当たる音。


 ガルドが先に足を止める。

 その先、路地の端で、リノが二人の男に囲まれていた。昼の雑用頭とは別だ。西通り側の下っ端らしい。酒が入っているのか下卑た笑い方をしている。


「だからよ、使えねぇなら最初から言えって話だろ」

「黙って立ってるだけなら木箱と変わんねぇぞ」


 リノは何も言わない。

 壁を背にして立ち、俯いている。逃げる気配はないというより、逃げる先を考える余裕がないように見えた。


 一人が、リノの腕を掴んだ。


 次の瞬間、リノはほんの少しだけ身を引いた。

 大きくではない。だが、その引き方で男の重心が前に流れる。もう一人が笑いながら肩を押そうとしたせいで、二人の足がもつれる。狭い路地では、それだけで十分だった。


「うおっ」


 片方の男が空の木箱に膝をぶつけ、もう片方は壁に肩を打った。

 計算してやったのか、反射だったのか、外からは分からない。だがリノはその隙に、するりと二人の間を抜けた。


 逃げる、というほど勢いはない。

 ただ、そこにいるのが自然でなくなったから、別の場所へ移ったような動きだった。


「てめ――」

 追おうとした男の前に、ガルドが立った。


 それだけで十分だった。

 男たちは酔いの残る顔で舌打ちし、文句を吐きながら引き下がる。真正面からぶつかる気はないらしい。


 路地に静けさが戻る。


 リノは少し離れた場所で立ち止まり、こちらを見ていた。

 いや、正確には見ているようで見ていない。誰を警戒すべきか決めきれず、視線が定まらないのだ。


「怪我は?」

 ミラが聞く。


「……ないです」

 返事は小さい。

「たぶん」


「たぶん、ね」

 ミラが困ったように笑う。


 エルンは警戒を隠さなかった。

「あなたはいつも、ああいう扱いを受けているんですか」


 リノは答えない。

 黙ったまま、視線を落とす。

 否定しないことが、答えの代わりだった。


「どこで寝てる」

 今度はガルドが聞く。


「……場所は、決まってません」

「食ってるのか」

「食べては、います」

「毎日か?」

「……たぶん」


 会話になっているようで、なっていない。

 だが嘘をついている感じでもなかった。確かなものが少なすぎて、本人にも数えられないのだ。


 ドグがぼそりと言った。

「置き場所のない道具は、すぐ壊れる」


 誰に向けた言葉かは曖昧だった。

 けれどリノの肩が、ほんの少しだけ揺れた。


 カイルは黙って、その様子を見ていた。

 哀れだとは思わない。下層にはもっとひどい目をした者もいる。だが、放っておけばどこかで本当に壊れるだろう、とは思った。

 そして壊れた時、その壊れ方はきっと静かではない。


「……とりあえず」

 ミラが言う。

「今夜だけでも、表通りに戻らない方がいいかもね」


 リノはすぐには頷かなかった。

 疑っているのではない。ただ、そう言われた時にどう返せばいいのか、分からない顔をしていた。


 ガルドが低く言う。

「来るか」


 短い一言だった。

 命令でもなく、優しさでもない。ただ、行き場がないなら来ればいい、というだけのものだった。


 リノは目を瞬かせる。

 返事はしない。

 それでも、逃げなかった。


 その沈黙を見て、カイルは小さく息をついた。


 居場所のない者は、自由なのではない。

 どこにも行くことができないのだ。


 近くに置くことが正しいかは、まだ分からない。

 だが少なくとも、見えない場所で壊されるよりは、目の届く場所にいた方がましだった。 

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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