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第29話 使い捨ての女

 翌日の午後、仕事は露骨に減っていた。


 継続で受けた西通り裏の荷は回っている。だがそれ以外の小口が、妙なくらい流れてこない。市場裏でいつもなら声をかけてくる顔が、今日はどこか遠巻きだった。


「分かりやすいね」

 ミラが壁にもたれ、細い目で人の流れを追う。

「うちに回すなって、どこかが先に触ってる」


「何件消えました」

 エルンが帳面を見たまま言う。


「朝から四件。たぶん、まだ増える」

「四件か」

 ガルドが低く唸る。

「面倒だな」


「殴れば戻る話じゃないよ」

 ミラが言う。

「こういうのは、見えないところで先に塞いでくる」


 カイルは何も言わず、市場裏の端に目をやった。


 荷を積んだ小さな台車を、やせた女が一人で引いている。背は高くない。服は汚れ、袖口は擦り切れ、靴も片方の革が割れていた。年齢は分かりづらい。若く見えるが、目の下の影だけが妙に深い。


 台車は重い。だが女は、止まりそうになっても誰にも助けを求めなかった。求め方を知らないようにも見えた。


「……あれ、見たことある」

 ミラが小さく言う。

「西通りの向こうで雑役してる子だ」


「子、って歳か?」

 ガルドが眉を寄せる。


「さあ。でも使われ方は、完全に使い捨てだね」


 その時だった。


 台車の片輪が石の継ぎ目に引っかかり、積まれていた木箱が傾いた。上に載っていた細長い箱が滑り落ちる。中身が割れ物なら、一つで済まない落ち方だった。


 周りの人間が一歩引く。

 誰も手を出さない。


 だが女だけが動いた。


 さっきまで重さに引かれていた足が、別人みたいに前へ出る。落ちる箱の下へ身を入れ、肩で受け、片手で台車の縁を押し返す。無茶な動きだった。普通なら潰れて終わる。

 なのに、箱は落ちなかった。


 崩れかけた荷は、ぎりぎりのところで持ち直した。


「……おい」

 ガルドが思わず声を漏らす。


 女は返事をしない。

 荒く息をつきながら、箱の位置を直し、縄を締め直す。手つきは雑だ。だが迷いがない。さっきまでの頼りなさが、一瞬だけ消えていた。


 その背へ、男の怒鳴り声が飛んだ。

「何やってやがる、リノ!」


 通りの向こうから来た男は、痩せた女を見るなり顔を歪めた。西通りの荷を回している側の雑用頭の一人だと、ミラが小さく舌打ちする。


「止まってんじゃねぇ、さっさと運べ!」

「……倒れ、そうだったから」

 女――リノの声は小さい。さっきの動きと繋がらないほど弱い。


「言い訳してんじゃねぇよ」


 男が腕を振り上げる。

 殴るには十分な角度だった。


 カイルは一歩だけ位置を変えた。男の視線が、ほんのわずかに横へ逸れる。ミラがその隙間に声を滑り込ませる。


「人前で壊したら、荷の方が止まるよ」

 軽い声だった。

「そんなに急いでるなら、手は仕事の方に使いなよ」


 男の顔がミラへ向く。

 怒りの行き先がずれた、その瞬間にガルドが前へ出た。


「荷が倒れりゃ困るのはお前だろ」

 低い一言だった。


 真正面から睨まれ、男の勢いが鈍る。周囲の目もある。ここで殴れば、自分の方が損だと分かる程度の頭はあるらしかった。


「……余計な口出しすんじゃねぇ」

 吐き捨てるように言って、男はリノの肩を乱暴に押した。

「運べ」


 リノはよろめいたが、倒れなかった。

 ただ「はい」とも言わず、黙って台車の取っ手を握り直す。


 その時、カイルは彼女の目を見た。


 普段は濁っているのに、追い詰められた瞬間だけ、妙にはっきりする。

 恐怖で固まる目ではない。どこを支えれば崩れないか、それだけを一瞬で見切るような目だった。


「……変だな」

 ガルドが小さく言う。


「変、だね」

 ミラも珍しく笑わなかった。

「普段は半分死んでるみたいなのに」


 エルンは帳面を閉じ、去っていく台車の軌跡を見る。

「動きに一貫性がありません。通常時と緊急時で、別人のようだ」


 ドグだけが短く言った。

「手は悪くない」


 それは、この男にしてはかなり高い評価だった。


 リノはもうこちらを見ない。

 いや、見ないというより、見る余裕がないのだろう。怒鳴られ、押され、それでも荷だけは落とさずに運んでいく。その背中には、守られる前提が最初からない。


 カイルは目を伏せた。


 危うい、と思った。

 同時に、使われ方が雑すぎるとも思う。


 使い捨てにされる人間は多い。下層では珍しくない。だがあれは、ただ弱いだけではない。追い詰められた時だけ、別の働き方をする。

 組むには厄介な存在に思えた。


「気になる?」

 ミラが横目で聞く。


「……少し」

 カイルは短く答えた。


「やめといた方がいいかもよ。ああいうのは、抱えると面倒」

「放っておいても面倒を起こしそうだ」

 ガルドが言う。


「だから困るんだよ」

 ミラが息を吐く。


 市場裏の風は乾いていた。

 締め付ける側の手は見え始め、その末端で使い潰される人間の顔も見え始めている。


 リノという名だけが、妙に耳に残った。


 消えそうなのに、消えきらない。

 壊れそうなのに、崩れる瞬間だけ妙に鋭い。


 カイルは、その背が角を曲がって見えなくなるまで、黙って見ていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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