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第26話 直す者、壊す者

 翌朝、市場裏にドグの姿はなかった。


 それは少しだけ当然で、少しだけ不自然だった。


 一件だけ。

 あの男はたしかにそう言った。だから来ていないこと自体はおかしくない。だが、昨日一日で分かったこともある。壊れた荷車、緩んだ箱、擦り切れた縄。下層に流れてくる仕事には、運ぶ前から崩れかけているものが多い。あれを四人だけで毎度どうにかするのは、やはり無駄が多かった。


「来ませんね」

 エルンが帳面を開いたまま言う。


「一件だけって言ってたし」

 ミラは軽く返したが、声に少しだけ物足りなさが混じっていた。


 ガルドは荷車の取っ手を持ち上げ、片輪の軋みに顔をしかめる。

「来ねぇなら来ねぇで回すだけだ」


 そう言って歩き出したものの、回り始めてすぐに綻びは出た。


 午前の二件目で、箱の底が抜けかけた。

 中身は干し豆で、大事には至らない。だが積み直しで手間を食い、受け渡しも遅れる。三件目では荷車の留め具が緩み、途中で一度止まった。昨日なら止まらずに済んだ場所だった。


「……やはり損失です」

 市場裏へ戻る道で、エルンが低く言った。

「目に見えて遅い。補修に取られる時間が、すべての流れを鈍らせています」


「分かってる」

 ガルドが短く返す。

「だが、いねぇ奴は使えねぇ」


 ミラは何か言いかけて、やめた。

 無理に呼び戻して来る相手ではない。金だけで動く男でもない。だからこそ厄介だった。


 市場裏へ戻ると、壁際に置いてあった古い木箱の前で、小商人が頭を抱えていた。底板が浮き、角も割れている。次の荷を詰めたいのに、そのままでは危ない。だが箱を買い替える余裕もない。よくある下層の困り方だった。


「それ、使うのか」

 ガルドが声をかける。


「使うしかないんだよ」

 商人は苛立ったように言い返す。

「新しいのを買う金があれば苦労しない」


 答えた直後、商人の視線がふっと横へ流れた。


 カイルもそちらを見る。


 いつの間に来たのか、ドグが箱の前にしゃがみ込んでいた。

 相変わらず汚れた作業服のまま、挨拶もなく割れ目に指を差し入れ、底板を軽く持ち上げる。


「釘が死んでる」

 それだけ言って、周囲を見た。

「細い板あるか」


 ミラが吹き出した。

「来てるじゃん」


「通りがかっただけだ」

 ドグは箱から目を離さない。


「通りがかっただけで直すの?」

「うるさい」


 ガルドの口元がわずかに動いたが、何も言わなかった。

 ドグは木箱の底に薄い板を噛ませ、縄を通し、角を留め直していく。新品には見えない。だが、崩れない形にはなる。使えなくなりかけたものが、もう一度仕事に戻れる顔になる。


 商人は呆然と見ていた。

「……それで保つのか」


「重いもんを詰めるな」

「布だ」

「なら保つ」


 短いやり取りだったが、それで十分だった。

 商人は何度も頷き、補修された箱を抱えて戻っていく。


 エルンがその背を見ながら言う。

「買い替え費用の削減、遅延の防止、信用の維持……やはり価値が高い」


「だから難しく言うな」

 ガルドが言う。

「要は、いると回る」


 ドグは立ち上がり、手についた木屑を払った。

「勘違いするな。俺はお前らのところに来たわけじゃない」


「じゃあ何しに来たの?」

 ミラが笑う。


「壊れそうな音がした」

 ドグはそれだけ言った。


 一瞬、誰も返せなかった。

 冗談でも気取りでもなく、本気でそう言っている顔だったからだ。


 カイルは小さく目を伏せた。

 この男は、人に興味が薄い。その代わり、壊れかけたものには敏い。昨日一件だけ手を貸したのも、頼まれたからだけではない。壊れているのに、そのまま使おうとするやり方が気に入らなかったのだ。


「……じゃあ、壊れそうなものがある限り、来るかもしれないんですね」

 カイルが言うと、ドグの目が少しだけ向いた。


「知らん」

「でも、来ないとも言わない」

 ミラがすかさず拾う。


 ドグは否定しなかった。


 その日の午後、彼は結局三度手を出した。

 一度は荷車の輪留めに。

 一度は裂けた縄の結び目に。

 もう一度は、角の欠けた箱の底板に。


 どれも大仕事ではない。だが、そのたびに流れが止まらずに済んだ。

 ガルドは押すだけでよくなり、エルンは組んだ段取りを崩されずに済み、ミラは遅れた言い訳を探さずに済む。目立つ変化ではない。けれど、昨日までとは明らかに違った。


 壊れた後に耐えるのではなく、壊れる前に形を整える。


 それは力とは少し違う。もっと地味で、だが確実に効く勝ち方だった。


 夕方、仕事が切れたところで、ドグは何も言わずに帰ろうとした。

 ガルドが背中に声を投げる。


「明日も来るのか」


「決めてない」

「来るなら助かる」

「助かるかどうかは、お前が決めることじゃない」


「じゃあ俺は、来たら使う」


 ドグはそこで一度だけ足を止めた。

 振り返りはしない。ただ、低い声だけが返る。


「壊し方が雑なら、手は出さねぇぞ」


「最初からそのつもりはねぇ」

 ガルドが言う。


 そのやり取りを聞きながら、カイルは静かに息をついた。


 正式に居ついたわけではない。

 仲間になったと言い切れるほど、近くもない。

 それでも流れの中には、もう確かに組み込まれている。


 直す者がいるだけで、仕事の勝ち方が変わる。

 正面から耐えるだけではなく、崩れない形を先に作れる。


 市場裏の喧騒の中で、四人だった流れは、また少しだけ別の形になっていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


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