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帰郷・1

 鐘が鳴っている。夕方に鳴る鐘の音だった。子供のころから飽きるほど聞いた。鐘が鳴ったら慌てて家に帰る。そういう決まりだった。鐘を無視して遊び続けると何度も怒られる羽目になる。まずは友達の母親。次に自分の母親。兄にも姉にもぐちぐちと小言を投げられ、しまいには母からの告げ口を聞いた父親に。そうして何度も怒られて、鐘の音を耳にするとぴたりと遊ぶのをやめられるようになった。歳が十を超えた頃の話だ。十年かかって体に馴染んだ習慣だった。鐘の音を聞くと思い出す。

 暮れ空は褪せた赤をしていて明るかった。空があれほど明るいというのに、家に挟まれた坂道は足元も定かでないほど暗く湿っているように思える。目が慣れる前にまた坂の上を見上げた。空は赤かった。

この長い坂をのぼりきった先に、古い小さな家がある。彼は帰り道にいた。足元が湿っているような気がするのは、真新しいアスファルトが黒くやわらかだから、そして波の音がするからだ。波の音は耳慣れない。俺はどこへ帰ろうとしているのだろうと思いたくなる。体重を乗せたつま先がやわらかなアスファルトにめり込むような気がする。もちろん気のせいだ。細かな段差にいちいちと引っかかるのか、やたらとトランクが重たく感じられた。肩こりでかすかな頭痛さえする。もっとも、頭痛はひどい二日酔いのせいかもしれなかった。

 長い坂道の長さを彼は意識する。これほど長かった覚えはない。体の深いところから息が足りなかった。いつの間にか足元ばかりを睨んでいた。アスファルトの黒さは相変わらずだったが、目は慣れてそれほど暗いとは感じなかった。革靴の黒とも容易く見分けがついた。早く終わってくれないかと祈るような心地がする。後ろのほうから楽しげな声が聞こえたかと思うとすぐに彼を追い越していった。数人の子供たちだった。断片的な歓びの声は金属に似ている。子供の声が軽やかに高いのも、この長い坂をやすやすと駆け上がる身の軽さも、すべては何も持っていないからだ。彼はトランクを持っている。歩きづらい革靴も、着慣れたスーツも持っている。頭痛を伴うほどの肩こりも、なかなか暗さに慣れない目も、鐘が鳴ると帰る習慣も、怒られる前にことを済ませる知恵も。重なる不摂生で体重もずいぶんと増えた。これほど息を切らすのに、彼はまだ祈っている。

 帰っても何もない。これだけ重くなった彼でも、何もなかった。何もなくても、あの古い家は玄関を開けてくれるだろう。玄関とはそういうものだ。それを喜ぶことができない彼は、まさしく大人と言えた。歳の数だけ持っていながら、何も得たとは思いがたい彼だ。長い坂は苦しさを増し、帰りたいとは到底思えないのに、一度のぼり始めた坂が終わることを祈っている。鐘のこだまが消えていく。残照がやんでいく。代わりに波の音が彼の心を占めていく。波が祈っている。

 彼は波の音を聞きながら明日のことを考える。来るかも分からない未来なのに、確かな感触があった。そうしてここまで生きてきた。彼はまだ夜明けを知らない。汗をぬぐって顔をあげる。坂の向こうに小さな青い屋根が見えた。鐘が鳴ったからもう帰らなければならない。弾んだ息の合間に、確かな波の音がした。


また原稿ぎりぎりにあげてしまった……

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