帰郷・2
Tシャツにジーンズで歩くのもこれが最後か、と思う。
感傷でなく、感慨深いでもなく、帰るのだな、と思う。
付け加えたように、髪が伸びてきたな、と思う。
まつ毛に前髪がかかった。
これまでにまつ毛を意識することはあまりなかった。
やはり髪が伸びてきたな、と思う。
潮風が気持ちよかったのは何年前だったか。
思い出そうとしても思い出せない。
いつでも気持ちよかった気がする。
同時に、いつのときも不快だったような気もする。
いつでも弱い潮風を浴びてきた自分に気づく。
「夜になると少し風が出た」
いつでも少し呼ばれている気がした。
今はそれに逆らって坂をのぼっている。
まだ風は弱かった。
夜は始まっていないのだと思う。
「星は夜を表さない」
しかし、海はいつでも夜だ。
いつでも夜に少し呼ばれている。
後ろ髪を引く声は弱い。
だから髪が少し伸びたと思う。
潮風は好きだった。
「音のしない風だ」
こんなに力のある風を知らない。
呼ばれているのとは反対方向にのぼっていく。
坂はただ坂としてのぼるしかない。
海は、夜は恨むだろうかとふと思う。
恨みはしないことも知っている。
「仲間だから」
坂をのぼるのは呼んでいるからだ。
同じほうを見ているから。
夜は恨まない。
自分が呼んだものを見ている。
「海は夜明けを知っている」
知っているから少し呼ぶ。
夜明けでないものはまた別のものを呼ぶ。
海の呼び声には応えない。
だから少し、髪が伸びた。
「海に応えないから灯台を見ている」
「坂の上には小さな鐘のついた灯台がある」
鐘が鳴れば、灯台も呼び掛けには応えない。
辿り着くまでに灯台が鳴らなければ、灯台は夜明けだ。
坂の上の灯台は今のところ黙ったままだ。
「だから坂をのぼる」
音のしない坂をのぼっている。
いつでも少し呼ばれている。
そして、いつでも少し呼んでいる。
「なぜだか、灯台は鐘を鳴らすような気がしてくる」
だからTシャツとジーンズで歩くのが最後だと思ったのだ。
理由も分からず感覚だけにとらわれていた自分に気づく。
また鐘が鳴るような気がしてくる。
風がだんだんと強くなってきた。
後ろ髪を引く声が強くなったのだ。
「海が呼んでいる」
音はない。
音のする時よりよほど強く呼ばれている。
「顔を伏せて抗おうとする」
坂の傾斜がきつくなったような気がした。
それほど呼ばれている。
「髪が伸びたことを実感する」
ずいぶん伸びたような気になる。
ふいに風が強くなった。
「耳元で激しく風が鳴る」
音のある風だ。
「思わず目を閉じる」
風が鳴ったことはなかった。
「はじめて聞く音だ」
しかし、風だった。
「風に抗って顔を上げる」
はるか遠くにある灯台の鐘が揺れていた。
「高らかに揺れていた」
音はなかった。
「皮膚が痺れて、鐘が鳴っていることが分かった」
その時初めて、一度も音を聞いたことのない自分に気づいた。
風が鳴ったことだけが、音との接点だった。
ただし、音としてとらえたのは耳ではない。
髪が伸びたせいだと思った。
「最後はなかなか訪れない」
「帰りたい、と思う」
このたび文学フリマに出店することになりました。
ここで掲載しているものとはまた違った文庫版『ひとつの夜明け前』をお届けできたらと思います。
細かな日程や場所についてはまた後日お知らせいたします。
どうぞよしなに。




