メーデー・下
僕の耳に、三回繰り返す声が届いた。
例えば教室で、後ろから笑い声が注がれたとき。静かな帰り道。制作に打ち込んだ窓の外。布団に入って一日を思い返す枕元。そのたびに僕は、何かの声が繰り返されるのを聞いた。僕に届くかすかな声。かすかだが、確かに三回繰り返す。どこから聞こえるのかはいつも曖昧だった。後ろからというのが一番しっくりくるが、振り返ってもその声の主を見つけ出すことはできなかった。妖精みたいなものだろうか。高くか弱い声で、同じ調子で繰り返される短い音の羅列は、どこか合言葉めいている。妖精との契約の言葉。そんな風に考えて、僕はいつの間にか声の主を想像するようになった。か弱く小さく、けれど機転を利かせてピンチに陥った僕を助けてくれるような賢い妖精だ。周りを飛び回りながら、僕がその存在を忘れそうになると契約の言葉を叫ぶ。私はここよ、忘れないで、あなたのそばには私がいるわ、いつでも守ってあげるよ、そんな励ましを込めて三回繰り返す。そんな空想に耽った。
釣り糸を垂らしているときも、一向に揺れない水面を眺めてぼんやりと妖精のことを考えた。隣にいる晴斗くんはうとうとし始めていて、さっきまで無線機の話で盛り上がっていたとは思えないほど静かだった。
突然、竿がクッと引かれる。
「あ、晴斗くん、網……」
言いかけた時、耳の中ではっきりと聞こえた。三回繰り返されるメーデーの声。驚いて振り返りかけるのと同時に、釣竿の引きも強くなってよろける。空が反転する。体が水を突き破る音がした。
目も口も閉じて圧力に耐える。声がした。高くか弱い声。耳慣れている。はっと目を開けると、水面の向こうに太陽が見えた。波に砕けた光が記憶を呼び起こす。太陽丸のミニチュア。自分の中では一番よくできた模造船だった。それはもう壊されてしまったものだが、今でも大事なものだ。声は続く。これは自分の声だ。最近はしょっちゅう声がかすれてしまうけど、このころの声はきっとはっきりしていた。必死に助けを求めていた。誰にも向けられないから、自分に向けて。未来の僕、きっと強くなって、僕を守って。どうか聞こえますように。届きますように。メーデー。
ああ、と僕はかすかに息を吐く。ごく小さな気泡が立ち上っていった。ごめんね。助けてあげられないよ。あのころの、助けを求めた僕を助けるすべがない。あのころの僕には今の僕からの声を聴く受信機がない。同じように、未来の僕が今の僕を助けるすべもない。
僕は力強く水をかいた。今の僕を助けられるのは今の僕だけだ。だから、伝えておくよ。未来の僕には、きっと君のメーデーを伝えてあげる。きっと未来の僕が、君のメーデーに意味を見出してくれる。それで許してね。僕はまだ、未完成の通信機なんだ。
水から顔を出すと、晴斗くんがおろおろしながら覗き込む目線とぶつかった。
「大丈夫? 溺れてない?」
「今溺れてきたところ」
軽口を言って笑うと、晴斗くんはほっと息をついた。その顔を見ながら、僕は記憶の中にある自分の声に付け加える。その声はきっと一度だけのほうが早く届く。三度も繰り返すから、今の僕なんかに届いてしまうんだよ。皮肉と愛をこめて。応答する、メーデー。
もうちょっと書き口を工夫すべきテーマだったなと思います。
精進します。




