それだけなんだ
静寂の詰まった研究室には筆の走る音だけが響いていた。
研究室の午後がこのように静まるのはそう珍しい事ではない。
だからこそ、メルビンの咳の音が異様に目立った。
メルビンは肺から出た硝子片が舞わないように、白衣の袖で口を覆っていた。それを見た他の研究員が、軽い口調で訊ねていた。
「主任、こんな時期に風邪ですか?」
「あはは……まあねー」
「無理しないでくださいねー」
そのやり取りを遠巻きに見ていたブランシュは、反射的に記録板に手を伸ばしかけた。
だが、やめた。
立ち上がってメルビンの側に歩み寄る。メルビンはそれに気付いて、一度目を逸らしたが、再びこちらを見た。
「……大丈夫ですか」
問うには遅かったかもしれない。
それでも、記録より先に口にした。
メルビンは白衣の袖で口元を拭って答えた。
「うん、大丈夫」
袖に血が滲んでいる。硝子片で喉を切ったのかもしれない。
「珍しいね。今日は数値を聞かないんだ」
メルビンのその言葉は、皮肉だったのかもしれない。
そう思いながらも、ブランシュは静かに答えた。
「……聞きません」
メルビンは少しだけ笑った。以前のような無邪気さはなかったが、冷たさもなかった。
「資料、見ました」
「赤字?」
「はい」
「ふふ。またムカついたんでしょ」
「……。安心、しました」
筆を走らせていたメルビンの手が止まった。目を丸くしてブランシュを見る。
ブランシュはほんの少しだけ気恥ずかしさを覚えたが、目を逸らしたまま続けた。
「まだ、主任に見て貰えていると思いました」
「……」
メルビンはペンを置くと、椅子を引いてブランシュに向き合った。
目が合う。
困ったような、呆れたような、そんな顔をしていた。
「ブランシュ。僕は君を見捨てたい訳じゃないんだよ」
「……」
「君が僕を失いたくないと思ってくれたこと自体は嬉しい」
ブランシュの目は無意識に、メルビンの血が付いた袖に向いていた。
それに気付いたのか、メルビンは袖を隠すようにぎゅっと握りしめた。
「でも、僕を大切に想うなら、僕の言葉ごと守ってほしかった。……それだけなんだ」
そう言って、メルビンは寂しそうに俯く。
ブランシュは、気が遠くなるような気がした。
自分は主任を救おうとしていたのに、実際には主任の意思を何一つ尊重していなかった。その方がいいと思ったから。
でも、なぜそうしたのか。理由は一つだ。――失いたくなかったから。
単に、私のエゴだったのかもしれない。
――いや。たとえエゴだとしても、完遂する意味は必ずあるはずだ。でなければ、主任は……主任は――。
固まってしまったブランシュの手に、冷たいものが触れた。
メルビンの手だった。
硝子に変質した美しい指先が、ブランシュの手を包んだ。その掌の奥には、まだわずかに体温が残っていた。
メルビンは、微笑んでいた。まるで慈しむように。
思考が融解していく。
涙腺が緩みそうになったが、他の人間の目が気になって、乱暴に目尻を拭った。
「……頑張ってくれたのは、嬉しい。だから……それは、ありがとう」
――メルビンのその言葉が、自分の中の罪を赦したような気がした。
事は何も解決していない。
だが今この瞬間、その一言だけで全てが報われたように思えた。
触れられた手を、離したくなかった。
それだけのはずだった。
次の瞬間には、抱きしめていた。
研究室の空気が止まった。誰かが椅子を引きかけて、やめた。見てはいけないものを見たように、皆が視線を逸らしていく。
けれど、ブランシュはそれどころではなかった。
彼の華奢な肢体を、軽い体躯を、折れそうな四肢を、白衣越しに抱いた。
長い黒髪に交じった白髪が綺麗だと思った。消毒香に交じった彼自身の香りが心地良いと思った。
メルビンの身体が強張ったことに気がついて、ブランシュはようやく自分が何をしているのか理解した。
メルビンは動揺した様子で「ちょ、ちょっと」と身を捩る。けれど、ブランシュを押し返す手には、ほとんど力が入っていなかった。
「……すみません」
ブランシュはすぐに我に返ってメルビンを離した。
メルビンは少しだけ顔を赤らめていた。感情を誤魔化すように「まったく」と呟く。その手はまだ白衣の襟を押さえていた。
「本当に不器用だな、君は」
……救うことと、従わせることは違う。
今さらそんな当たり前のことを思い出した。
ほんの僅かな間、生まれた沈黙が心地悪かった。
ブランシュは「失礼します」と一礼すると、自分の机に戻り、一枚の紙を取り出した。
そして、早足で研究室を出て、隣の検査室に入り、鍵を後ろ手で閉めた。
机に紙を置く。
軍務省への連絡符。レミ・ルブラン少佐の名が、端に小さく刻まれている。
緊急搬送先指定を取り消す。
そう書こうとして、手が止まった。
凍結、という言葉が先に浮かんだ自分を、ブランシュは恥じた。
……主任の言葉を、今度こそ聞く。
ブランシュはそう思った。




