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アベラール症例  作者: 天河


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9/12

それだけなんだ

静寂の詰まった研究室には筆の走る音だけが響いていた。

研究室の午後がこのように静まるのはそう珍しい事ではない。

だからこそ、メルビンの咳の音が異様に目立った。

メルビンは肺から出た硝子片が舞わないように、白衣の袖で口を覆っていた。それを見た他の研究員が、軽い口調で訊ねていた。


「主任、こんな時期に風邪ですか?」

「あはは……まあねー」

「無理しないでくださいねー」


そのやり取りを遠巻きに見ていたブランシュは、反射的に記録板に手を伸ばしかけた。

だが、やめた。

立ち上がってメルビンの側に歩み寄る。メルビンはそれに気付いて、一度目を逸らしたが、再びこちらを見た。


「……大丈夫ですか」


問うには遅かったかもしれない。

それでも、記録より先に口にした。

メルビンは白衣の袖で口元を拭って答えた。


「うん、大丈夫」


袖に血が滲んでいる。硝子片で喉を切ったのかもしれない。


「珍しいね。今日は数値を聞かないんだ」


メルビンのその言葉は、皮肉だったのかもしれない。

そう思いながらも、ブランシュは静かに答えた。


「……聞きません」


メルビンは少しだけ笑った。以前のような無邪気さはなかったが、冷たさもなかった。


「資料、見ました」

「赤字?」

「はい」

「ふふ。またムカついたんでしょ」

「……。安心、しました」


筆を走らせていたメルビンの手が止まった。目を丸くしてブランシュを見る。

ブランシュはほんの少しだけ気恥ずかしさを覚えたが、目を逸らしたまま続けた。


「まだ、主任に見て貰えていると思いました」

「……」


メルビンはペンを置くと、椅子を引いてブランシュに向き合った。

目が合う。

困ったような、呆れたような、そんな顔をしていた。


「ブランシュ。僕は君を見捨てたい訳じゃないんだよ」

「……」

「君が僕を失いたくないと思ってくれたこと自体は嬉しい」


ブランシュの目は無意識に、メルビンの血が付いた袖に向いていた。

それに気付いたのか、メルビンは袖を隠すようにぎゅっと握りしめた。


「でも、僕を大切に想うなら、僕の言葉ごと守ってほしかった。……それだけなんだ」


そう言って、メルビンは寂しそうに俯く。

ブランシュは、気が遠くなるような気がした。

自分は主任を救おうとしていたのに、実際には主任の意思を何一つ尊重していなかった。その方がいいと思ったから。

でも、なぜそうしたのか。理由は一つだ。――失いたくなかったから。

単に、私のエゴだったのかもしれない。

――いや。たとえエゴだとしても、完遂する意味は必ずあるはずだ。でなければ、主任は……主任は――。


固まってしまったブランシュの手に、冷たいものが触れた。

メルビンの手だった。

硝子に変質した美しい指先が、ブランシュの手を包んだ。その掌の奥には、まだわずかに体温が残っていた。

メルビンは、微笑んでいた。まるで慈しむように。


思考が融解していく。


涙腺が緩みそうになったが、他の人間の目が気になって、乱暴に目尻を拭った。


「……頑張ってくれたのは、嬉しい。だから……それは、ありがとう」


――メルビンのその言葉が、自分の中の罪を赦したような気がした。

事は何も解決していない。

だが今この瞬間、その一言だけで全てが報われたように思えた。

触れられた手を、離したくなかった。

それだけのはずだった。

次の瞬間には、抱きしめていた。

研究室の空気が止まった。誰かが椅子を引きかけて、やめた。見てはいけないものを見たように、皆が視線を逸らしていく。

けれど、ブランシュはそれどころではなかった。

彼の華奢な肢体を、軽い体躯を、折れそうな四肢を、白衣越しに抱いた。

長い黒髪に交じった白髪が綺麗だと思った。消毒香に交じった彼自身の香りが心地良いと思った。

メルビンの身体が強張ったことに気がついて、ブランシュはようやく自分が何をしているのか理解した。

メルビンは動揺した様子で「ちょ、ちょっと」と身を捩る。けれど、ブランシュを押し返す手には、ほとんど力が入っていなかった。


「……すみません」


ブランシュはすぐに我に返ってメルビンを離した。

メルビンは少しだけ顔を赤らめていた。感情を誤魔化すように「まったく」と呟く。その手はまだ白衣の襟を押さえていた。


「本当に不器用だな、君は」


……救うことと、従わせることは違う。

今さらそんな当たり前のことを思い出した。


ほんの僅かな間、生まれた沈黙が心地悪かった。

ブランシュは「失礼します」と一礼すると、自分の机に戻り、一枚の紙を取り出した。

そして、早足で研究室を出て、隣の検査室に入り、鍵を後ろ手で閉めた。


机に紙を置く。

軍務省への連絡符。レミ・ルブラン少佐の名が、端に小さく刻まれている。


緊急搬送先指定を取り消す。

そう書こうとして、手が止まった。

凍結、という言葉が先に浮かんだ自分を、ブランシュは恥じた。

……主任の言葉を、今度こそ聞く。

ブランシュはそう思った。

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