嗚咽
同意を得ることができなかった。
ブランシュの口からそれを聞いた時、レミは手袋に包まれた指を組んで呟いた。
「アベラール主任の性格を考えれば、予想の範囲内です」
レミは相変わらず、わかったような口を利く。ブランシュの中に再び不快感が生まれる。
だが、事実としてレミの予想は当たっている。それがブランシュの反論する意欲を削いだ。
暫しの沈黙が続いた後、レミは小さく溜息を吐いて、低く語り始めた。
「……深層魔術由来の急性発作が起きた場合、研究院医務室では対応できません。通常なら、治癒院か魔導医療院へ搬送されるでしょう。しかし、地底性変質症の末期発作に対応できる設備を持つ施設は限られています」
「……」
「軍務省附属の深層魔術医療棟なら、対応可能です」
「そんな……。……主任が倒れるまで待てと?」
「私はそうは言っていません」
「同じことでしょう」
語気に僅かな怒りを滲ませるブランシュに、レミは首を横に振る。
「待つのではなく、備えるのです」
「アベラール主任が急性発作を起こせば、本人の意思確認は困難になります。その時、通常医療で救命不能と判断されれば、あなたの術式は唯一の救命手段になり得る」
「その状況で施術を選ぶことは、少なくとも手続き上は可能です」
その言葉を聞いて、ブランシュは額に手を当てて俯いた。
そんな選択をしたら、主任はいよいよ自分を見限るんじゃないか。
言葉が出なくなったブランシュに対して、レミは感情の無い表情で告げた。
「あなたが欲しいのは、倫理的な許可ではなく、実行可能な経路だ。そうでしょう」
「……」
――何を躊躇う必要がある、ブランシュ・コーン。
これは実行ではない。ただの備えだ。
主任の拒絶を無視する手段ではない。拒絶さえできなくなった時の為の救命措置に過ぎない。
喩えその結果失望されるとしても、この世界からメルビン・アベラールがいなくなることの方が、よほど大きな損失だろう。
ブランシュはそう自分に言い聞かせた。そうしているうちに、その通りだと、欺瞞だったものが体に馴染んでいくような感じがした。
「……では、そのようにしましょう」
「……。念のため申し上げておきますが、意図的に発作を誘発することは許可しません。私は状況を作る提案をしているのではなく、状況に備える手続きを提示しているだけです」
「……わかっています」
釘を刺すレミに、ブランシュは忌々しい気持ちを抱いた。
ブランシュの絞り出すような声を聞いたレミは、一度目を細めると、一枚の書類を取り出した。
『緊急搬送先指定申請書』。
ブランシュは、必要な項目を順に埋めていった。
所属:セルティア共和国立魔術研究院 深層魔術生体研究室
病名:進行型地底性変質症
緊急搬送先:セルティア共和国軍務省附属 深層魔術医療棟
搬送条件:急性深層変質発作、意識障害、通常医療対応不能時
申請者:ブランシュ・コーン
備考:本人同意未取得
対象者の項目で、一度筆が止まった。
しかし、それだけだった。ブランシュは流麗に、丁寧に、その名を綴った。
対象者:メルビン・アベラール
その名を実際に書いてみると、想像よりも小さく見えた。
*
他の研究者が皆帰った頃、ブランシュはようやく研究室に戻ってきた。
夕陽が差す自分の机の上に、メルビンに提出した研究資料が戻ってきていた。
厳しい赤字が急いた筆跡で書かれている。
容赦のない、冷酷ささえ感じる正確無比な指摘。
ブランシュはそれを見て、なぜか酷く安堵した。
主任は、まだ私を見てくれている。
怒っていても、失望していても、見捨てられていない。
資料に雫が落ちた。一つ、二つと、黒い染みが広がり、インクが滲む。
止めようとした。研究室で泣くなど、あまりにも愚かだと思った。だが息が詰まり、喉の奥からみっともない音が漏れた。
もう、限界だった。
主任を失いたくない一心でやってきた全てが、主任を裏切る結果になった。
だが、そうしなければ、私を正してくれる存在はいなくなってしまう。
そんなことは耐え難い。
だからといって主任の意思を裏切り続けることもまた、辛く苦しい。
ブランシュは泣いた。声を上げて泣いた。床に膝をついて、崩れ落ちて泣いた。




