裏切り
先日、軍務省から仮申請の受理通知が届いた。
これで残すところは、主任の同意を得るだけとなった。
それが最も難しい手順であることを、ブランシュは考えないようにしていた。
机上に資料を並べる。
軍部資料。ネズミを使用した実験記録。メルビンの魔力波形。個別調整用術式。軍用設備使用申請書。同意書。
――何も間違ってなどいない。
必要なのは、根拠と手順と、主任が首を縦に振るだけの説得力だ。
検査室の扉が開いた。一人だった部屋に、ブランシュ以外の足音が小さく響く。
「怖い顔して、どうしたの? また何か壊した?」
呼び出されたメルビンは、ブランシュの顔を見て軽い口調で訊ねる。
ブランシュは一度、息を吸った。そしてゆっくりと吐くと、資料に目を落とした。
「主任に、見ていただきたいものがあります」
軍部資料の一頁目を捲り、メルビンに見せる。
「――これは、軍部で行われていた地底帰化実験の記録です。軍務省の協力を得て、これを解析しました」
「この記録で使用されていた術式は肉体強化を優先しすぎている為、人体の魔力回路に高い負荷がかかります。ですが、失敗記録の中には有用な情報がありました」
ブランシュは続ける。視線は資料に向いたまま。メルビンの顔を見ることなく。
寝ずに行った研究の成果を、早口で報告する。
「私はそれを元に、精神保持を優先した式に組み替えました」
「低位魔力汚染個体で安定反応を確認しています」
違う。
ブランシュは報告をしながら、自覚していた。
私は、主任の顔を見ないのではない。『見ることができない』のだと。
どんな顔をしているかわからない。何を言われるかわからない。
この報告が終わってしまう瞬間が、主任の反応を見なければならない瞬間が、堪らなく怖い。
――そんな思考とは裏腹に、報告は淀みなく進んでいった。そして次の言葉を発した時、メルビンは声を荒げた。ブランシュの予想通りに。
「主任の魔力波形に合わせれば、拒絶反応は更に抑えられる筈です」
「ちょっと待って」
メルビンはブランシュの手から軍部資料を奪い取り、狼狽えた様子で中身を見た。
そしてブランシュに対して、信じられないものを見る目を向けた。絶句しているようだった。
ブランシュはその顔を、直視できなかった。
「……僕の魔力波形に合わせるって、何。いつ採ったものなの」
「先日の検査時です」
「あれは病理記録に回す為の検査だったはずだ」
「……。必要な複写でした」
メルビンは一瞬、何を言われたのかわからないような顔をした。
それから、顔色が変わった。軍部資料を取り落とす。
ブランシュはメルビンが落とした紙の束を、ゆっくりと拾い上げた。
「じゃあ、何。君は、僕に黙って、僕の身体を使って、式を組んでいたってこと? こんな記録まで使って」
ブランシュはしゃがんだまま、反射的に答える。それは恐らく、メルビンに対する反論ではなく、自分の中の倫理に対する言い訳だった。
「主任を救う為です」
その言葉が検査室に響いた瞬間、一瞬の静寂が検査室を支配した。
メルビンはしばらく、ブランシュを見ていた。
そして、胸倉を掴んだ。
その時、ブランシュは初めて、メルビンの表情を見た。
怒りと哀しみが滲んでいた。ブランシュは、初めて見るメルビンの激情に動揺した。
「君が残そうとしているのは僕じゃない。僕の形をした、ただの自己満足だ」
「ッ……。……あなたが失われることは大きな損失だ。でも、この方法なら免れられるかもしれない。ならそれに縋ったっていいじゃないですか!」
「僕はこんなやり方で救われたって何も嬉しくないよ」
「あなたは自分の価値を理解していないだけだ!」
「……それが僕の決定権を踏み躙る理由か」
メルビンの手が緩む。床に座り込んだブランシュを、メルビンは冷めた目で見下ろした。
ブランシュが睨むようにメルビンを見つめる。悲痛な瞳だった。
「主任は……仰ったじゃないですか。死が怖いと」
「言ったよ」
「なら、どうして」
「怖いことと、君に身体を預けるかどうかは、別の話だからだ」
ブランシュは言葉に詰まった。
「……私はただ……主任を失いたくないだけです」
「知ってる」
「なら」
「でもそれは、僕の同意の代わりにはならないよ」
メルビンは踵を返すと、扉の前で一度振り返った。
「この件は、研究室内で止める。軍部には何も渡さない。君も、これ以上進めないで」
「ですが……」
「こんなのが外部に露見したら君はクビじゃ済まない。わかってよ、君を守る為なんだ」
メルビンのその言葉が、叱責よりも深く刺さった。
まだ守られようとしている。
裏切った相手に。
ブランシュの言葉を待たず、メルビンは部屋を出た。
扉が閉まる直前にこちらを見ていた瞳には、薬草茶を差し出した時の温度はなかった。
検査室に静寂が戻る。
残されたブランシュは、座り込んだまま呆然としていた。
だが暫し黙り込んだ後、静かに立ち上がると、散らばった資料を一つにまとめた。
同意書の空欄を埋める事はできなかった。
だが、それは同意が不要になったということではない。
軍用設備の使用期限は決められている。
主任の病状だって、日に日に悪くなっている。
即ち、『待っていられない』という意味だ。
主任は恐怖で正しく判断できていない。
倫理への執着で、自分を見殺しにしようとしている。
ならば、同意を得る以外の手順を検討する必要がある。
ブランシュはメルビンが去って行った扉を眺めながら、その目を細めた。




