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アベラール症例  作者: 天河


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7/12

裏切り

先日、軍務省から仮申請の受理通知が届いた。

これで残すところは、主任の同意を得るだけとなった。

それが最も難しい手順であることを、ブランシュは考えないようにしていた。

机上に資料を並べる。


軍部資料。ネズミを使用した実験記録。メルビンの魔力波形。個別調整用術式。軍用設備使用申請書。同意書。


――何も間違ってなどいない。

必要なのは、根拠と手順と、主任が首を縦に振るだけの説得力だ。

検査室の扉が開いた。一人だった部屋に、ブランシュ以外の足音が小さく響く。


「怖い顔して、どうしたの? また何か壊した?」


呼び出されたメルビンは、ブランシュの顔を見て軽い口調で訊ねる。

ブランシュは一度、息を吸った。そしてゆっくりと吐くと、資料に目を落とした。


「主任に、見ていただきたいものがあります」


軍部資料の一頁目を捲り、メルビンに見せる。


「――これは、軍部で行われていた地底帰化実験の記録です。軍務省の協力を得て、これを解析しました」


「この記録で使用されていた術式は肉体強化を優先しすぎている為、人体の魔力回路に高い負荷がかかります。ですが、失敗記録の中には有用な情報がありました」


ブランシュは続ける。視線は資料に向いたまま。メルビンの顔を見ることなく。

寝ずに行った研究の成果を、早口で報告する。


「私はそれを元に、精神保持を優先した式に組み替えました」


「低位魔力汚染個体で安定反応を確認しています」


違う。

ブランシュは報告をしながら、自覚していた。

私は、主任の顔を見ないのではない。『見ることができない』のだと。

どんな顔をしているかわからない。何を言われるかわからない。

この報告が終わってしまう瞬間が、主任の反応を見なければならない瞬間が、堪らなく怖い。

――そんな思考とは裏腹に、報告は淀みなく進んでいった。そして次の言葉を発した時、メルビンは声を荒げた。ブランシュの予想通りに。


「主任の魔力波形に合わせれば、拒絶反応は更に抑えられる筈です」

「ちょっと待って」


メルビンはブランシュの手から軍部資料を奪い取り、狼狽えた様子で中身を見た。

そしてブランシュに対して、信じられないものを見る目を向けた。絶句しているようだった。

ブランシュはその顔を、直視できなかった。


「……僕の魔力波形に合わせるって、何。いつ採ったものなの」

「先日の検査時です」

「あれは病理記録に回す為の検査だったはずだ」

「……。必要な複写でした」


メルビンは一瞬、何を言われたのかわからないような顔をした。

それから、顔色が変わった。軍部資料を取り落とす。

ブランシュはメルビンが落とした紙の束を、ゆっくりと拾い上げた。


「じゃあ、何。君は、僕に黙って、僕の身体を使って、式を組んでいたってこと? こんな記録まで使って」


ブランシュはしゃがんだまま、反射的に答える。それは恐らく、メルビンに対する反論ではなく、自分の中の倫理に対する言い訳だった。


「主任を救う為です」


その言葉が検査室に響いた瞬間、一瞬の静寂が検査室を支配した。

メルビンはしばらく、ブランシュを見ていた。

そして、胸倉を掴んだ。

その時、ブランシュは初めて、メルビンの表情を見た。

怒りと哀しみが滲んでいた。ブランシュは、初めて見るメルビンの激情に動揺した。


「君が残そうとしているのは僕じゃない。僕の形をした、ただの自己満足だ」

「ッ……。……あなたが失われることは大きな損失だ。でも、この方法なら免れられるかもしれない。ならそれに縋ったっていいじゃないですか!」

「僕はこんなやり方で救われたって何も嬉しくないよ」

「あなたは自分の価値を理解していないだけだ!」

「……それが僕の決定権を踏み躙る理由か」


メルビンの手が緩む。床に座り込んだブランシュを、メルビンは冷めた目で見下ろした。

ブランシュが睨むようにメルビンを見つめる。悲痛な瞳だった。


「主任は……仰ったじゃないですか。死が怖いと」

「言ったよ」

「なら、どうして」

「怖いことと、君に身体を預けるかどうかは、別の話だからだ」


ブランシュは言葉に詰まった。


「……私はただ……主任を失いたくないだけです」

「知ってる」

「なら」

「でもそれは、僕の同意の代わりにはならないよ」


メルビンは踵を返すと、扉の前で一度振り返った。


「この件は、研究室内で止める。軍部には何も渡さない。君も、これ以上進めないで」

「ですが……」

「こんなのが外部に露見したら君はクビじゃ済まない。わかってよ、君を守る為なんだ」


メルビンのその言葉が、叱責よりも深く刺さった。

まだ守られようとしている。

裏切った相手に。


ブランシュの言葉を待たず、メルビンは部屋を出た。

扉が閉まる直前にこちらを見ていた瞳には、薬草茶を差し出した時の温度はなかった。


検査室に静寂が戻る。

残されたブランシュは、座り込んだまま呆然としていた。

だが暫し黙り込んだ後、静かに立ち上がると、散らばった資料を一つにまとめた。


同意書の空欄を埋める事はできなかった。

だが、それは同意が不要になったということではない。


軍用設備の使用期限は決められている。

主任の病状だって、日に日に悪くなっている。


即ち、『待っていられない』という意味だ。


主任は恐怖で正しく判断できていない。

倫理への執着で、自分を見殺しにしようとしている。

ならば、同意を得る以外の手順を検討する必要がある。


ブランシュはメルビンが去って行った扉を眺めながら、その目を細めた。



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