空欄
文字の輪郭が少し滲んで見えていた。
指先の感覚が鈍い。
それでも手順だけは身体が覚えていると思っていた。
硝子の割れる音が響いた。
足元で砕けた試験管の底が滑るのを見て、ブランシュは漸く、自分が何日もろくに寝てないことを思い出した。
一度目を閉じてから、箒を持ってきて硝子の破片を片付ける。
ありふれた人的過誤だ。そう自分に言い聞かせる。
「ブランシュ」
振り返る。主任がすぐそこに来ていることにすら気づけなかった。
こちらの名を呼ぶメルビンの口調は、決して咎めるようなものではなかった。
「ちょっと来て」
そう言われて、「はい」と頷く。満足そうに笑ったメルビンは、給湯室に向かっていった。
少し遅れて給湯室に足を踏み入れると、薬草茶の苦い香りが鼻腔をくすぐった。
メルビンは二つ用意したマグカップのうち、一つをこちらに渡してきた。
「はいこれ。不味いけどよく効くよ」
「主任が淹れたんですか」
「うん。不味い理由はそれかもね」
冗談交じりに笑いながら、メルビンは机の上の箱の包装を開ける。
市内の有名な店の焼き菓子だった。
「僕、これ好きなんだよね。ブランシュも食べて」
「……いただきます」
メルビンがこういうものを用意するのは、そう珍しいことじゃない。
メルビンは、相手がどれほど若くても、研究員を雑に扱うことがなかった。
失敗を叱る時でさえ、必ず名前を呼ぶ。
眠れていないと気づけば、こうして不味い茶を淹れる。
ブランシュはそのことを尊敬していた。
あるいは、別の名で呼ぶべき感情かもしれない。だが、少なくとも今は、尊敬と呼んでいた。
焼き菓子を食べて、温かい茶で流し込む。
口の中に強い苦みが残る。
ブランシュが菓子を食べる姿を眺めていたメルビンは、自身も菓子を口に運びながら呟いた。
「今日はもう帰るといいよ。疲れてるでしょ」
「いえ、まだ作業が残っています」
「倒れられる方が困るからさ」
そう言われて、ブランシュは押し黙った。
この人は、自分を案じてくれている。
自分がこの人に何をしようとしているのかも知らずに。
その事実が胸を刺した。
そして、この痛みそのものが、まだ間に合う証のような気もした。
(……やはり、失えない)
「わかりました。今日はこれで上がります」
「うん。そうしなさい」
ブランシュはまだ熱い薬草茶を喉に流し込むと、「ごちそうさまでした」と残し、その場を後にした。
身支度を済ませ、研究院を後にする。
口の奥には、まだ薬草茶の苦味が残っていた。
あれほど不味いと言われたものを、ブランシュは不思議と嫌いになれなかった。
主任が自分のために淹れたものだったからだ。
一度、振り返る。研究室の窓を見て、メルビンの顔を思い出した。
『今日はもう帰る』。
研究院からは帰る。
それだけだった。
また、主任に嘘をついた。
*
軍務省の庁舎は、革と石と、微かな火薬の匂いがした。
広い廊下を歩く。すれ違う軍人が時折物珍しそうにこちらに視線を向けている。この場に於いて、ブランシュの白衣は異様に浮いていた。
そんな中、一室で待ち受けていたレミは、ブランシュを見ても当然のような顔をしていた。ブランシュの要求を聞いても尚、驚かなかった。
「軍用設備を使わせてください」
ブランシュはそれ以上は言わなかった。不快を繕う気さえ起きず、顔を顰めたままだった。
レミはそんなブランシュに対し、静かに答えた。
「理由を伺っても?」
「私の設備では、人体適用段階の安全検証ができません」
「……人体適用」
レミは確認するように復唱し、ブランシュの目を見た。ブランシュは自ら放った言葉であるにも関わらず、言葉に詰まった。
そんなブランシュを、レミは暫く観察していた。だが何かを納得したのか、口を開いた。
「あなたは彼を救いたいと言う。ですが、今あなたが私に要求しているのは、救命設備ではなく実験設備です」
「治療に必要な検証です」
「ええ。言葉ではそう整理できます」
「……何が言いたいんですか」
「あなたにはおわかりの筈だ」
つくづく気に入らない男だ。
ブランシュは苛立ちを隠しきれず、右の拳を強く握った。
レミは意に介した様子を見せないまま、淡々と続ける。
「条件が二つあります」
「……聞きます」
「一つ目は成果の共有です。軍用設備を使用する以上、得られた成果は軍務省と共有していただきます。そしてもう一つは、アベラール主任本人の同意を得ることです」
「……!」
考えてみれば当然のことではある。だがその条件がレミから提示されたことに、ブランシュは戸惑った。
恐らくメルビンはこの実験を是としない。そして、この非人道的な話に既に加担してしまっているブランシュを非難するだろう。
メルビンの顔を思い出す。茶と菓子を差し出してくれた笑顔が、冷めた顔に変わるその瞬間を想起するだけで、ブランシュは強い吐き気がした。叱責されることより、失望されることの方が恐ろしかった。
思考を介することなく、言葉が口を衝く。責任を転嫁したくて出た言葉だった。
「……今更、随分と倫理的なことを仰るのですね」
「後で問題になることを避けるためです。軍属の被験者とは訳が違いますので」
震えるブランシュの声とは対照的に、レミの声には抑揚がなかった。
ブランシュは咄嗟に逃げ道を探したが、結局押し黙るに至った。そんな様子を見ていたレミは、静かに一枚の紙を取り出した。
そちらに目を向ける。軍用設備の使用許可を求める申請書だった。
「空欄でも、仮申請は受理できます」
ブランシュはしばらく硬直した後、震える手でペンを取った。
申請者。
ブランシュ・コーン。
使用目的。
地底帰化安定術式・人体適用前検証。
そこまでは書けた。
だが、予定対象の欄に移ったところで、手が止まった。
「……」
ペンを置く。
空欄の残ったままの書類を、レミの方へ差し出した。
その空白が、誰の名を待っているのか。
わかったまま、ブランシュは依然として目を逸らし続けていた。
予定対象欄は、空白のまま受理された。




