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アベラール症例  作者: 天河


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5/12

検査

翌朝になっても、魔力計の針の動きは一定だった。

変異したネズミの状態を確認する。

翼部萎縮なし。複眼機能維持。摂食行動あり。

同居個体に外傷なし。少なくとも、攻撃性の発露は確認されていなかった。

だが、一つだけ変わった点があった。

複眼の一つは昨日まで同居個体を追従していた。だが今は、同居個体が近づいてきても反応を示さなくなっていた。

実験前は、匂いを嗅ぐ、追う、避けるなどの反応があった。だが今は、まるで同居個体を『認識していない』ように見えた。


ブランシュは記録する。


同種認識の低下。

感覚地図の再編成による一時的混乱。

現段階では、精神崩壊とは断定できない。


もう一度検体を見る。


問題は、対象ごとの魔力波形に術式を合わせていないことだ。

汎用式のままでは人間に適用できない。

個別調整をする必要がある。


ネズミたちに餌を与え、水を交換する。

蓋を閉め、鞄を手に取った時、水槽の方でか細い鳴き声がした。

ブランシュは振り返らなかった。



*



出勤してきたメルビンに対して、ブランシュは声を掛けた。


「変質症の進行を改めて記録させてほしいのですが」


それを聞いたメルビンは怪訝な顔をした。


「記録? 治療じゃなくて?」

「ええ。主任の仰るように、現段階では地底帰化安定術式による治療は困難です」

「それで患者のサンプルだけでも取っておくべきだと」

「はい」


ブランシュは、自分の口が用意していた嘘を淀みなく並べていくのを、他人事のように聞いていた。

その嘘に気づいた様子もなく、メルビンは「なるほどね」と呟いてから、納得したように頷いた。


「そうだね。その方がいい」

「ありがとうございます」


そう言って、二人は研究室から隣り合った検査室に移動した。

そしてメルビンは白衣を脱いで袖を捲った。

硝子質の病変が、以前よりも広がっていた。


ブランシュはメルビンと向かい合って座ると、羊皮紙に綴った。


病変部は手首から前腕の三分の一まで進行。

光透過率、前回の目測より上昇。

魔力脈、硝子質組織内で分岐。

毛髪に色素脱落を確認。


メルビンの身体を目視で確認して、記録。

記録。

繰り返す。

不意に、メルビンと目が合った。出会ったときから何一つ変わらない、青い瞳がこちらを見ていた。

記録の手が止まる。


(――私は、まず主任のことを心配するべきだったんじゃないか?)


今になって、そんな風に考えた。

ブランシュが固まったのを見て、メルビンは何かを察したのか、へら、と笑って見せた。


「やだなあ。そんな顔しないでよ。僕の腕より君の顔色の方が悪いじゃないか」


脈を診る為に触れた手首。そこにあるはずの拍動は、硝子質の皮膚に遮られて、ほとんど感じ取れなかった。


「……主任は、怖くないんですか」

「死が、かい?」


ブランシュが頷くと、メルビンは明るく返した。


「怖いよ」


だがその声は、震えていた。それを誤魔化すように、メルビンは続ける。


「だからこそ、怖い時に決めたことを、信じすぎないようにしてるんだ」

「……」


メルビンが咳込む。

粉のような硝子片が呼気に混ざり、空中に舞った。窓から差し込んだ光を受けて、細かな粒がきらきらと煌めく。

美しいと思いかけて、ブランシュはその感覚をすぐに押し殺した。

――呼気に硝子片混入。肺変質のおそれあり。

記録する。


「……。血液を採ります」

「はいはい」


思っていたよりも悪い。

そう確信しながらも、ブランシュは粛々と作業を続けた。

恐らく、主任は自覚がある。もう長くはないということ。

そして、恐怖を押し殺しているだけで、実際には死に怯えている。

ならば、やはり私が決めなければならない。


検査は滞りなく終了した。自分の生体魔力波形の記録を眺めていたメルビンは、白衣を羽織りながらブランシュに告げた。


「記録は病理簿に回しておいて」

「はい」

「……今日のこの記録で、いつか誰かを救えるよ。きっと」

「……」


メルビンはそう言って部屋を後にした。

その小柄な背中に対して、ブランシュは何も言うことができなかった。


「いつか、誰か。……それでは駄目なんですよ」


検査室の静寂に、ブランシュの独り言がぽつんと残った。



*



帰宅したブランシュの手には、記録板から複写した、メルビン本人の魔力波形があった。

これを手に入れる為にメルビンからの信頼を踏み台にしたことに、ブランシュは罪悪感を覚えた。

だが、メルビンを死なせる訳にはいかない。最早猶予がないことは、今日の検査で明白になった。

必要なことだ。ブランシュはそう自分を奮い立たせた。


机に並べる。軍部資料の式。研究室の正式術式。メルビンの魔力波形。

必要なものは揃った。これで対象に合わせることができる。


(――対象)


そう呼んだ瞬間、何かが間違ったような気がした。何が間違っているのかは、わからなかった。

ブランシュは羊皮紙に、改めて記述した。


『メルビン・アベラール 個別調整用基礎波形』


……間違ってなどいない。

そう書き添えたい衝動を、ブランシュは辛うじて堪えた。



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