検査
翌朝になっても、魔力計の針の動きは一定だった。
変異したネズミの状態を確認する。
翼部萎縮なし。複眼機能維持。摂食行動あり。
同居個体に外傷なし。少なくとも、攻撃性の発露は確認されていなかった。
だが、一つだけ変わった点があった。
複眼の一つは昨日まで同居個体を追従していた。だが今は、同居個体が近づいてきても反応を示さなくなっていた。
実験前は、匂いを嗅ぐ、追う、避けるなどの反応があった。だが今は、まるで同居個体を『認識していない』ように見えた。
ブランシュは記録する。
同種認識の低下。
感覚地図の再編成による一時的混乱。
現段階では、精神崩壊とは断定できない。
もう一度検体を見る。
問題は、対象ごとの魔力波形に術式を合わせていないことだ。
汎用式のままでは人間に適用できない。
個別調整をする必要がある。
ネズミたちに餌を与え、水を交換する。
蓋を閉め、鞄を手に取った時、水槽の方でか細い鳴き声がした。
ブランシュは振り返らなかった。
*
出勤してきたメルビンに対して、ブランシュは声を掛けた。
「変質症の進行を改めて記録させてほしいのですが」
それを聞いたメルビンは怪訝な顔をした。
「記録? 治療じゃなくて?」
「ええ。主任の仰るように、現段階では地底帰化安定術式による治療は困難です」
「それで患者のサンプルだけでも取っておくべきだと」
「はい」
ブランシュは、自分の口が用意していた嘘を淀みなく並べていくのを、他人事のように聞いていた。
その嘘に気づいた様子もなく、メルビンは「なるほどね」と呟いてから、納得したように頷いた。
「そうだね。その方がいい」
「ありがとうございます」
そう言って、二人は研究室から隣り合った検査室に移動した。
そしてメルビンは白衣を脱いで袖を捲った。
硝子質の病変が、以前よりも広がっていた。
ブランシュはメルビンと向かい合って座ると、羊皮紙に綴った。
病変部は手首から前腕の三分の一まで進行。
光透過率、前回の目測より上昇。
魔力脈、硝子質組織内で分岐。
毛髪に色素脱落を確認。
メルビンの身体を目視で確認して、記録。
記録。
繰り返す。
不意に、メルビンと目が合った。出会ったときから何一つ変わらない、青い瞳がこちらを見ていた。
記録の手が止まる。
(――私は、まず主任のことを心配するべきだったんじゃないか?)
今になって、そんな風に考えた。
ブランシュが固まったのを見て、メルビンは何かを察したのか、へら、と笑って見せた。
「やだなあ。そんな顔しないでよ。僕の腕より君の顔色の方が悪いじゃないか」
脈を診る為に触れた手首。そこにあるはずの拍動は、硝子質の皮膚に遮られて、ほとんど感じ取れなかった。
「……主任は、怖くないんですか」
「死が、かい?」
ブランシュが頷くと、メルビンは明るく返した。
「怖いよ」
だがその声は、震えていた。それを誤魔化すように、メルビンは続ける。
「だからこそ、怖い時に決めたことを、信じすぎないようにしてるんだ」
「……」
メルビンが咳込む。
粉のような硝子片が呼気に混ざり、空中に舞った。窓から差し込んだ光を受けて、細かな粒がきらきらと煌めく。
美しいと思いかけて、ブランシュはその感覚をすぐに押し殺した。
――呼気に硝子片混入。肺変質のおそれあり。
記録する。
「……。血液を採ります」
「はいはい」
思っていたよりも悪い。
そう確信しながらも、ブランシュは粛々と作業を続けた。
恐らく、主任は自覚がある。もう長くはないということ。
そして、恐怖を押し殺しているだけで、実際には死に怯えている。
ならば、やはり私が決めなければならない。
検査は滞りなく終了した。自分の生体魔力波形の記録を眺めていたメルビンは、白衣を羽織りながらブランシュに告げた。
「記録は病理簿に回しておいて」
「はい」
「……今日のこの記録で、いつか誰かを救えるよ。きっと」
「……」
メルビンはそう言って部屋を後にした。
その小柄な背中に対して、ブランシュは何も言うことができなかった。
「いつか、誰か。……それでは駄目なんですよ」
検査室の静寂に、ブランシュの独り言がぽつんと残った。
*
帰宅したブランシュの手には、記録板から複写した、メルビン本人の魔力波形があった。
これを手に入れる為にメルビンからの信頼を踏み台にしたことに、ブランシュは罪悪感を覚えた。
だが、メルビンを死なせる訳にはいかない。最早猶予がないことは、今日の検査で明白になった。
必要なことだ。ブランシュはそう自分を奮い立たせた。
机に並べる。軍部資料の式。研究室の正式術式。メルビンの魔力波形。
必要なものは揃った。これで対象に合わせることができる。
(――対象)
そう呼んだ瞬間、何かが間違ったような気がした。何が間違っているのかは、わからなかった。
ブランシュは羊皮紙に、改めて記述した。
『メルビン・アベラール 個別調整用基礎波形』
……間違ってなどいない。
そう書き添えたい衝動を、ブランシュは辛うじて堪えた。




