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アベラール症例  作者: 天河


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4/12

綺麗な仮説

その夜、帰宅したブランシュは、鍵を掛けてから軍部資料を開いた。

一枚捲るごとに、ブランシュの眉間の皺は深くなる。

被験者の扱いは非人道的。術式も粗雑。記録も軍事目的に偏っている。

これが罷り通っているという事実は、受け入れがたかった。


だが。


(第十九日、命令理解に遅延。第二十一日、自己名への反応消失。第三十日、廃棄)


文字を頭の中で復唱する。


(つまり、二十一日までは自己認識が残っていた。ならば精神保持の限界点は、そこにある)


ブランシュは羊皮紙を取り出すと、ペンを持って計算式を書き始めた。軍部が使用した魔術式と、研究室で組み上げている地底帰化安定術式との差異を、荒い字で算出していく。

軍部で使用されていた術式は、肉体及び魔力の強化が優先されていた。人間の魔力回路は極めて繊細だ。当人の精神の限界を逸した強化がその調和を乱し、精神や同一性の崩壊を引き起こしたのだろう。

ならば、精神保持を主軸にする。


地底性形質を外側から押し込めば拒絶反応が起こる。

必要なのは、対象の既存魔力回路に地底性形質を沿わせ、拒絶ではなく同調として定着させることだ。


――主任は既に、地底性変質症を発症している。

ならば、完全な外部改造ではなく、進行している変質を安定系へ導けばいい。


ブランシュはゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に置かれた水槽を覗き込んだ。

白いネズミが二匹立ち上がって此方を見つめている。

これは、もともとは低位魔力汚染の経過観察用に払い下げられた個体だった。

研究院の設備を使えば、記録が残る。

記録が残れば、主任に見つかる。

……これは正式な実験ではない。仮説を棄却するための、小さな確認作業に過ぎない。


ブランシュはそのうちの一匹を持ち上げると、ガラス瓶の中に滑り込ませるように移動させた。

ネズミが混乱したように瓶の底を歩き回っている。

紙に走り書きした魔法陣の上にその瓶を置くと、ブランシュは静かに詠唱した。


「――……」


風もないのに、前髪がふわりと浮いた。

魔法陣が輝く。空気中の魔素がブランシュの呼気に合わせてネズミに集中する。

ネズミは苦しそうに甲高く鳴いた。

魔力計の針が跳ねた。

ブランシュは咄嗟に術式の一部を削り、流入する魔素を絞る。

ネズミの悲鳴が途切れ、代わりに荒い呼吸だけが瓶の内側に残った。


魔力回路に干渉されたネズミは、みるみるうちに変質していく。

尾の先が硬質化した。片目が複眼化した。その背から蝙蝠の様な翼が生えた。

ここまでは予定通りだった。問題は適合するかどうかだ。

ブランシュはガラス越しにじっとネズミを見つめる。


ネズミは動かず、ただ呼吸をしていた。

だがしばらくすると何事もなかったかのように起き上がった。次の瞬間、急に飛び上がり、ガラス瓶の縁から這い上がろうとした。

ブランシュはガラス瓶を持ち上げると、水槽の上まで持って行った。


ネズミがその翼を広げた。空中を器用に飛びながら水槽の中に着地する。

水槽で待っていたもう一匹のネズミが、同居者の変化に気づいて匂いを嗅いでいた。

本来なら隔離すべきだった。

だが、同種個体への反応も精神保持の指標になる。

ブランシュはそう判断し、水槽に蓋をした。



*



「この補助式、君の組み方じゃないね」


ブランシュの書いた研究資料を見て、メルビンが目敏く呟いた。

ブランシュは書類を書いていた手元を一度止めたが、再び筆を動かしながら返した。


「過去資料を再整理しました」

「どの資料?」

「……古い症例簿です」


それを聞いたメルビンは、目を細めて呟く。


「症例簿に、こんな癖の式が残っていたかな」


まるで全てを見抜かれているような気分になって、ブランシュは居た堪れなくなった。

努めて平静に「まあ」と返す。メルビンの顔を見るに、単にカマを掛けられているだけのようだった。


「ブランシュ、君はせっかちなところがある。欲しい結論に向かって式を組むと、式は君に媚びてくるんだ」

「……」

「だから、公正な目を忘れずに。焦っている時ほど、綺麗な仮説には注意するべきだ」

「……重々、承知しています」

「よろしい」


ブランシュが頷くと、メルビンの目は逸れた。

内心、生きた心地がしなかった。それは、自分に後ろめたいことがあるからに他ならない。

それでも、ブランシュは間違ったことをしているとは思わなかった。主任の方が間違っているとすら思った。

……焦らずにいる方が不誠実だろう。

それに、自分の持つ仮説は単なる綺麗な仮説ではない。実際には、実験記録に基づいたかなり有力な仮説だ。――主任が知らないだけで。

そう考えて、自分の中の強い罪悪感を揉み消した。

ブランシュは机の上をあらかた片付けると、手早く荷物を持った。


「今日はもう帰ります」

「あれ、珍しいね。じゃあ、気を付けて」

「はい。お疲れさまでした」


そう言って、足早に研究室を後にする。

研究院の廊下を歩いて、階段を下りて、急いで家路につく。

家について真っ先に見たのは、水槽の横に設置した魔力計の針の振れ幅。

暴走していない。沈黙もしていない。ただ、安定している。

次に、ネズミの水槽を見た。

検体は餌を食べ、水を飲み、毛繕いをした。

毛繕いの順序が変わっている。右前脚、左耳、尾。通常なら尾は最後だ。

複眼のうち二つは餌皿を、残りは同居個体を追っている。

異形化による感覚地図の再編成。

異常ではない。少なくとも、現時点では。


ブランシュは、しばらくそれを観察していた。

忙しなく生命活動をするネズミたちを。

検体が異形と化しても、平常通り生きている姿を。



(……間に合う)



そう思った瞬間、胸の奥にあった罪悪感は、驚くほど簡単に形を失った。

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