利害の一致
夜、ブランシュは、軍務省から研究室へ送られてきた文書を読み返していた。
内容は、深層魔術生体研究室に於ける今後の研究方針を打診するものだった。
地底帰化安定術式の完成は望ましいとする一方で、文書内には見逃しがたい内容が散見された。
高魔力兵の生成。肉体耐久性の向上。魔術汚染環境への適応。老化停止による長期運用。帝国呪術兵器への対抗。
軍事転用を目論んでいることを隠す気さえないようだった。
主任が却下するわけだ。
ブランシュは一度、文書を畳んだ。
だが、すぐにまた開いた。
目を通すだけなら、まだ何も選んだことにはならない。
そういうことにした。
その時、ある一行で目が留まった。
――進行型地底性変質症患者に対する適用可能性。
メルビンの顔が、否応なく脳裏に浮かぶ。
――軍の協力を得られれば、主任の症状が進行するよりも早く臨床段階に移せるかもしれない。
だが、その先にあるのは何だ。
軍は地底帰化安定術式を兵器として見ている。行き着く先は、倫理の名を失った人体改造だ。
自分はそれに加担するのか。
そもそも主任は、それを見越してこの文書を退けたのではないか。
(……いや。そういうことじゃないだろう)
主任は倫理を守れる人間だ。
ならば、その主任を失うことは、倫理を守る者を一人失うことでもある。
寧ろ、それこそが倫理に対する背信と言えるだろう。
残すことと壊さないことを混同してはならない。
昨日、主任はそう言った。
ブランシュはその言葉を覚えていた。覚えていたからこそ、苛立った。
主任が自分を過小評価しているのならば、別の人間が正しい選択をする必要がある。
今ブランシュに求められているのは、きっとそれだ。
ブランシュは羊皮紙とペンを取り出すと、静かにその筆先を走らせた。
宛先は、セルティア共和国軍務省。
差出人の名は、ブランシュ・コーン。
文書に添付されていた返信用の魔導符に、短い照会文を送った。
主任の名は、そこには一度も書かれていなかった。その方が良いと思った。
*
翌朝、研究院に出勤すると、事務員の女性がこちらを見て呼び止めた。
「コーン研究員。軍務省のレミ・ルブラン少佐がお見えです」
軍務省。そう聞いてブランシュは息を呑んだ。
「……。わかりました」
努めて平静に返答する。
確かに返信はした。だが、早すぎる。まるでこちらの動きがわかっていたかのようだ。
ざわつく心境を抑えながら、早い足取りで応接室へ向かった。メルビンに見られたら言い訳がつかないとか、軍人の得体の知れない動きが心地悪いとか、そんなことを考えていた。
応接室の扉を開く。その男は椅子に座って資料を読んでいたが、こちらの存在に気づくと、立ち上がって形式的に敬礼をした。
きっちりとした軍服。姿勢は大袈裟なくらい整っている。そこに剣呑さはないが、心の籠っていない礼儀正しさがあった。
「ブランシュ・コーン研究員ですね。お時間をいただき感謝いたします」
「あなたが、軍務省の」
「セルティア共和国軍務省、対外魔術戦略局所属のレミ・ルブラン少佐と申します」
ブランシュが圧倒されながらもソファに座ると、レミも追従するように腰を掛けた。
何を言うべきか。依然としてこの対面に後ろめたさを覚えているブランシュは、話題を切り出すのが一拍遅れた。
「アベラール主任の病状は、予想より進行が速いようですね」
レミの言葉に、ブランシュは目を見開いた。言葉が口を衝く。
「なぜ、それを」
「主任級研究員の健康状態は、国家事業の継続性に関わります」
レミはそれ以上の言葉は口にしなかった。
メルビンを国家事業の重要人材として高い価値がある存在だと認識している。
単にそれだけの言葉だった。
ブランシュは形容しがたい不快感に襲われた。
お前が主任の何を知っているというのか。
そんな感情が湧いて出たが、反論しきる事はできなかった。
ブランシュ自身もまた、主任が失われることを「損失」として考えなかったとは言い切れなかったからだ。
言い淀むブランシュを眺めていたレミだったが、一度瞬きをしてから再び、口を開いた。
「軍務省は、地底帰化安定術式の実用化に関心があります」
それは昨晩読んだ文書の反復だった。
警戒するように目が険しくなったブランシュに対して、レミは続ける。
「あなたは、アベラール主任を救いたい。我々は、共和国を守るための技術を必要としている。利害は、部分的に一致している」
「……」
「……聡明なあなたなら、全てを語らずともおわかりでしょう」
レミは薄く口元を動かした。笑みと呼ぶには、あまりに感情が薄かった。
ブランシュは気づけば立ち上がっていた。
声は、自分が思っていたよりも低かった。
「主任を兵器にするつもりですか」
詰めるようなその言葉に、レミは表情を変えずに答える。
「いいえ。少なくとも、現段階では」
「現段階では? 将来的にはあり得ると」
「成功例がなければ、兵器にも医療にもなりませんよ」
「そんなことは……倫理的に許されるはずが……」
「倫理」
レミはその言葉を、机の上に置かれた器具の名でも読み上げるように繰り返した。
「倫理を、余裕のある国にだけ許される贅沢だと言い切るつもりはありません」
そして淡々と、続けた。
「ですが、戦場ではそう扱われる局面があります。帝国は、その局面を選ぶことに躊躇しない」
「……ご自分が何を言っているかわかっていますか」
「私の言葉が不快ですか。ならばあなたはまだ正常だ。だが、それでアベラール主任を救えると思うのなら、楽観的だと言わざるを得ない」
「っ……!」
ブランシュは言葉に詰まる。
「……あなたが返信を寄越した時点で、答えの半分は出ています」
レミはそう呟くと、落ち着いた手つきで書類の束を取り出して、ブランシュの前に置いた。
『地底帰化反応記録』と書かれた書面。右上には、軍務省の封印印と、閲覧等級を示す赤い線が引かれていた。研究院の通常権限では触れられない資料だ。
「……これは」
「写しです。必要なら、お持ちください。正式には存在しない資料ですから、紛失の記録も残りません」
ブランシュは返す言葉を失った。
だが、見ないという選択肢はなかった。もとより、ある程度の覚悟の上で返信した。……見てから判断したって、良いはずだ。
ブランシュは資料を手に取ると、ゆっくりと一枚を捲った。
そして、絶句した。
――なんだこれは。
被験者番号。階級。年齢。術後経過。
右眼複眼化。歩行能力維持。魔力出力二・七倍。
第十九日、命令理解に遅延。
第二十一日、自己名への反応消失。
第三十日、廃棄。
それは、地底性変質症に罹患した軍属者に、未完成の地底帰化術を施した実験記録だった。
死亡ではない。廃棄。ブランシュは信じられないものを見る目で、レミの目を見る。彼は顔色一つ変えていなかった。
再び書面を捲る。
安定していない術を施術された軍属者の末路は悲惨なものが殆どだった。――だが、全く無意味とも言いきれない例がいくつもある。生命の維持、精神の安定化、老化の停止、魔力の飛躍的向上。それらが成功している例が、事実として存在していた。
それはすなわち、未完成の危険な術のまま、『事実上、既に軍事転用されている』ことを意味していた。
ならば、これまで自分たちが守ってきた研究の姿は何だったのか。
主任が守ろうとしていた倫理は。
そのために重ねてきた日々は。
だが、これは紛れもなく『臨床記録』だ。
今後の実験には、大いに役に立つ。
……主任を救うことだって、このデータがあれば、きっと不可能じゃない。
だが、これはあまりにも……。
ブランシュは頭が痛くなって、ソファに座り込んだ。
「返答は急ぎません。ですが、病の進行は待ちません」
「……」
「それでは、私はこれで。あなたが必要だと判断した時、連絡をください」
返事のないブランシュに対して、レミは再び礼をして、確かな足取りで部屋を後にした。
その後も、ブランシュは呆然としていた。ソファに座ったまま、ぼんやりと文書を眺めていた。読むというより、視線で文字をなぞっていただけだった。
時計の鐘が鳴る。
音に気づいて時刻を見たブランシュは、「研究室に行かなければ」と立ち上がった。
文書は中身が見えないように、小脇に抱えた。
研究室に戻った時、メルビンがこちらに気づいて声を上げた。
「珍しいね、君が遅刻なんて。どこか行ってたの?」
ブランシュは抱えた文書を机に伏せると、できるだけ平静に答えた。
「資料室です」
「またー? 埃で肺を悪くするよ」
本当に資料室にいたのだと、疑っていない声だった。
ブランシュは相槌のつもりで笑った。
そして、文書を机の引き出しにしまった。
鍵をかける音が、嫌に重く響いた。




