完治例なし
資料を棚から出した時、厚い埃が宙を舞った。
ブランシュは顔を顰めて咳払いをする。
病理記録。症例簿。それらをあらかた机の上に置くと、一番上を手に取って開いた。
地底性変質症、進行型。
脚部の異形化を確認。体内魔力循環に異常。内臓破裂。
治癒師による回復魔法により一時蘇生。十日後、両腕部の異形化を確認。両腕部、蔦状に変形。頸部圧迫により窒息死。
捲る。
眼球の結晶化。
魔素拮抗剤を投与。幻視および幻聴を訴える。以後、妄想性観念が固定化。
四十日目、人格荒廃を確認。七十日目、自死。死因、投身によるショック死。
捲る。
頸部から植物様の物体が発芽。悪心による食欲減退。栄養剤を投与。
二十五日目、頭蓋部の急激な内圧上昇を確認。直後、頭蓋破裂。死亡。
ブランシュはそこまで読んで、額に手を当てた。唇の隙間から出た呼気が震えている。
(――例外があるはずだ。きっと)
地底性変質症は、異形化という法則性のない現象を伴う。もしかしたら、死を免れている症例があるかもしれない。
だが捲れども捲れども、その症状には一貫性がなく、凄惨な死を迎えている記録ばかりだった。
ブランシュが最後の資料を読み終えた時、研究室の扉が開いた。
「おはよー」
よれた白衣を着て寝癖をつけたメルビンが、欠伸をしながら出勤してきた。
昨日病変を明かした事など嘘のように平然としている。
ブランシュは後ろ手に隠すように資料の前に立ち、「おはようございます」と言うと、手早く資料を棚に戻していった。
これを読んでいたことを知られたくなかった。
心配していたと思われるのが嫌だったのではない。
もう死後の資料を漁っているように見えるのが、耐えがたかった。
「昨日の反応、確認した?」
メルビンの言葉に、ブランシュの肩が跳ねる。メルビンの方を見ると、こちらを見ないまま話しているようだった。
「はい」
「じゃあ、あとで見せてね」
そう言って、メルビンはいつもと何ら変わらない様子で、机に向かった。
ブランシュはその様子を見て、少しだけ安堵した。
――昨日見た光景は、もしかして自分の悪い夢だったんじゃないか?
だって、主任はこんなにもいつも通りじゃないか。
そんなことを考えながら、ブランシュは自分の机へ戻った。目の前には昨日の実験の記録。ああ、そうだ。これを主任に見せなければ。
ブランシュは「主任」と声を掛けようとして、やめた。さっきまで机に向かっていたメルビンが、目の前に立っていたからだ。
メルビンは手に持った紙の束をブランシュに差し出す。
ブランシュは、訳がわからずに固まった。
紙束の端には、いくつもの付箋が挟まっていた。分類は済んでいる。目録まで付いている。
昨夜思いついて用意した量ではなかった。
「ブランシュにお願いがあるんだよね」
「お願い、ですか」
「ほら……僕が全部抱えたまま倒れるのは、みんなだって困るだろうし」
他の誰にも聞こえないように、メルビンは小声でそう言った。
「だからね、君にはここの主任補佐をしてほしいんだ」
「……主任補佐」
「うん。今のうちに、僕の仕事を引き継いでおいてほしいんだ」
メルビンなりの信頼の証だった。
だが、ブランシュは差し出された引継ぎ資料を受け取ることができずにいた。
受け取れば、認めることになる。
メルビン・アベラールがいなくなった後の研究室を、自分が整理するのだと。
そんなものを、引き継ぎと呼びたくなかった。
そして、ゆっくりと口を開いた。まるで、反論するかのように。
「地底帰化実験を急げば、間に合うかもしれません」
「……その『間に合う』は誰に対して言っているのかな?」
メルビンは少しだけ目を険しく細めた。机上に資料が置かれる。
ブランシュはその言葉を聞いて、「しまった」と目を逸らした。
暫く間を置いて、メルビンは続ける。
「確かに、地底帰化を変質症の安定形だと見る説はある」
「……ですから……主任が命を落とす必要はありません」
「それは結論を急ぎすぎだね。地底帰化の理論を、安全な形で完成させる。段階を踏んで、確実に人間を救う。そのための研究室だよ。僕一人を急いで救う場所じゃない」
「……。ですが……このままでは、主任が」
言い淀むブランシュを横目に、メルビンは棚から一冊の本を取り出した。地底帰化の過去の実験記録だった。
それを開いて、なぞるように眺めながら、メルビンは云う。
「――今の段階では……肉体が保たれたとしても、その人がその人のままとは限らない。残すことと壊さないことを混同してはならないよ、ブランシュ」
「……」
ブランシュは顔を顰めたまま、静かに頷いた。
ブランシュが資料を受け取った様子を見て、メルビンは満足そうに微笑んだ。
「さてと。やることはたくさんあるぞぉ」
おどけた様子で机に戻って行ったメルビンの背を眺めながら、ブランシュは思った。
――主任は、自分の価値を低く見積もっている。
確かに、研究は残るかもしれない。
だが主任はわかっていない。この研究室に主任がいること、そのものに意味があるということを。
引継ぎ資料を自分の机に改めて置く。主任にその内心が読まれないように、努めて静かに。
その時、束に挟まっていたわけではない一通の封筒が、机の端から滑り落ちた。
恐らく、メルビンが先ほど資料を分類していた時に紛れ込んだのだろう。
ブランシュがそれを拾い上げると、メルビンが自分の机に座ったまま少し声を張り上げた。
「あー、それ。捨てておいて」
軽い口調で言われ、ブランシュは「わかりました」と答えた。
差出人は、セルティア共和国軍務省。
件名は、深層魔術生体研究における地底性形質の応用可能性について。
捨てておいて。
そう言われた以上、中身を確認する必要はなかった。
だが。
メルビンを一瞥する。独り言を呟きながら、机に向かって何かを書いているようだった。――こちらのことは、見ていない。
封は既に切られている。捨てる前に確認するくらいなら、命令に背いたことにはならない。
ブランシュはそう自分に言い聞かせて、文書を抜き取った。
……進行型地底性変質症患者に対する、地底帰化安定術式の適用可能性。
その文言を、ブランシュは見逃さなかった。
文書は元の封筒に戻さなかった。折り目が付かないように、慎重に畳む。
それから、白衣の内ポケットにしまった。




