赤字の余白
アベラール主任の赤字は、いつも容赦がなかった。
語義が曖昧。根拠薄弱。推論が二段飛んでいる。結論を急ぐな。
ブランシュ・コーンは、羊皮紙の余白に並んだその短い指摘を、一つずつ目で追った。
どれも正しい。腹立たしいほどに正しい。だからこそ美しかった。
文字には、その人間の思考の癖が出る。
その赤字は乱れている。忙しなく、時に線が跳ね、余白の幅など少しも揃っていない。
だが、思考だけは常に真っ直ぐだった。
誤りを見つける速さ、不要な装飾を削ぎ落とす手つき、曖昧なものを曖昧なまま許さない冷たさ。
彼は、その赤字が嫌いではなかった。
寧ろそれが自分の文章に刻まれていることに、奇妙な安堵さえ覚えていた。
セルティア国立魔術研究院、深層魔術生体研究室。
自分以外の誰もいなくなった室内で、ブランシュは椅子の背凭れから身を起こし、天井に掌を向けて背を伸ばした。
窓の外が暗闇に沈んでから、随分経った。ランプの灯りを頼りに、今一度、魔力計の針を確認した。
――相変わらず沈黙している。
ブランシュの肩に、どっと疲れが圧し掛かった。
また失敗だ。そう気落ちしていた時、不意に研究室のドアが開いた。
「やあブランシュ。調子はどうだい」
明るい声色。少し汚れのついた白衣を羽織った華奢な男が、軽い口調で訊ねてきた。
ブランシュは丸まった背筋を反射的に伸ばした。
メルビン・アベラール。この男が、あの厳正な赤字の筆者だった。
「主任。……いえ、その」
「ははぁん。その顔は上手くいってないね」
「……すみません」
「いいよ。どれどれ……ちょっと見せてね」
メルビンはブランシュの立っていた場所に立つと、身体を屈めて魔力計を覗き込んだ。
「触媒じゃないね。封印槽の温度、少し高いんじゃないかな。確認して」
そう言われて、ブランシュは封印槽の温度計を見た。
――確かに、標準値から二段階高い。
ブランシュが調整弁を捻ると、魔力計の針が遅れて動き始め、次第に反応を強めていった。
「止めて」
限界点に至る直前に、メルビンが指示する。弁を反対方向に捻ると、反応は静かに収まっていった。
「……流石です」
ブランシュが感嘆すると、メルビンは得意げに笑った。子供のように無邪気に見えた。
「再現性の確認は明日でいいよ。今日はもう遅いし」
「いえ……今日のうちに記録しておきたいので……」
メルビンはそう呟いたブランシュの眉間を、指先でつついた。
「駄目。最近ろくに休んでないでしょ。事故を起こされたら困る。休むときは休みなさい」
「……。わかりました」
不服を抱きながらも素直に頷くと、メルビンは再び笑って見せた。
器具の片付けを始めたメルビンの背を見て、ブランシュは目を細めた。
この研究室の全てには、主任の目が届いている。故に、この研究室の在り方は間違っていない。ブランシュの中にはそういう確信があった。
「……けほ」
メルビンが乾いた咳をした。二度、三度。振り返ると、計器を持つ彼の手が震えていた。
「主任」
「はは、風邪かなぁ」
「風邪で魔力波形は反転しません」
机上の測定器の数値を指差すと、メルビンはへら、と笑った。
「……見なかったことにしてくれない?」
ブランシュは沈黙した。メルビンの笑みは、いつものように長くは保たなかった。
「……駄目か」
「駄目です」
「だよね」
その後、暫く言い淀んだようだったが、ブランシュの真剣な表情を見て、覚悟を決めたように見つめ返した。
「見てくれ」
そう言って、左の袖を捲る。細く白い手首が露出する。腕に続くその皮膚は人間のそれではなかった。
血管が露出している、否、違う。皮膚と筋線維が変質しているのか。
ブランシュは絶句して、確かめるようにその皮膚に触れた。
まるで硝子のようだった。
「――これは……」
地底性変質症。
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、ブランシュは触れていた指を離せなくなった。
長く地下の魔力を浴びた身体が、少しずつ地上人の形を失っていく病。
治療法はない。進行を遅らせる術式はいくつか存在するが、止めた例はない。
多くの深層魔術学者は、この病で命を落とす。メルビンも、ブランシュ自身ですらも、恐らくそうなるという自覚があった。
だが、ブランシュは受け入れがたかった。
早すぎる。主任はまだ三十六歳だ。こんなに早くその時が来て良いわけがない。
ブランシュの動揺を見抜いてか、メルビンは困ったように笑った。
「仕方ないよ。人はいずれ死ぬ。それは自然なことだし、ほんの少し早まっただけのことだ」
「ですが、主任……。納得いきません。この研究室にはまだ、主任が必要です」
「僕がいなくても、君たちは十分にやっていけるよ。特に、君のような優秀な研究者がいるんだから」
期待しているよ。
そう続けたメルビンは、ブランシュの肩を軽く叩いて、研究室を後にした。
彼の言葉は、本来なら誇らしく思うべきものだった。
だがブランシュは、少しも嬉しくなかった。
主任がいなくなった後の研究室を任されることなんて、空虚を管理するようなものだ。
消毒香の匂いが、いつもより強いような気がする。
残されたブランシュは、暫く呆然と立ち尽くしていた。




