成立
レミ・ルブランは、未処理の書類を三つの山に分けていた。
即時処理。
保留。
誰かが死ぬまで動かない書類。
緊急搬送先指定書は、二つ目の山に置かれていた。
対象者欄には、流麗な筆跡で一つの名が記されている。
メルビン・アベラール。
その名前を確認しても、レミの手は止まらなかった。
申請は正式に受理されている。本人同意は未取得。搬送条件は明記されている。
急性深層変質発作、意識障害、通常医療対応不能時。
手続きとしては整っている。今のところは。
「少佐。研究院のメルビン・アベラール主任がお見えです」
「通してください」。副官にそう告げると、彼はメルビンを部屋に通した。
「おかけください」
メルビンはソファに掛けると、よれた白衣の皺を軽く整えた。
研究院で見かけた時よりも白髪が増えた。目の下の隈も深い。皮膚の色も悪い。
医学的な判断を待つまでもなく、余命の長くない人間の顔だった。
メルビンはその事実をひた隠しにするかのように、溌剌と礼をした。
「お久しぶりです、ルブラン少佐」
「今日はどういったご用件でしょう」
「僕の緊急搬送先指定、軍務省附属の医療棟になってますよね。それを撤回したい」
レミは先刻、申請者であるブランシュ・コーンから同旨の連絡を受けていた。
両者の間に何らかのやり取りがあったのだろう。だが、その詳細を詮索する気はなかった。
撤回するならば事務処理上、直筆の署名が必要になる。だから保留にしていた。
レミはブランシュが来庁するとばかり思っていたが、一足先にメルビンが来たことに内心驚いていた。
いずれにせよ、手続きに支障はない。
「――では併せて、地底帰化安定術式の緊急適用を拒否するという意思でよろしいですか」
「はい」
メルビンははっきりと頷いた。
その返答を受け、レミは撤回手続きの為に拒否書を作成する。
レミの手を見ながら、メルビンは毅然とした声色で言った。
「コーン研究員の処分は、研究院内で決定します」
「……。あなたの意思に反した手続きを進めた人物ですが」
「それでもです」
書類を書き終え、メルビンを一瞥する。
中性的な面立ちの彼がやつれている姿は、病の深刻さを際立たせていた。
それでも、一貫した意思の表れなのか、視線は真っ直ぐだった。
この人間は、自分を研究材料にされかけても、なお相手の未来を考えるのか。
(――甘い)
その甘さは、優しさの域を超えている。
だがレミはその在り方に敬意を覚えた。真似したくはないが、見上げるべき博愛精神だ。
そして、この場にいないブランシュ・コーンが、これを失うことに怯えた理由を、僅かに理解した。
事務処理は粛々と行われた。
必要な事項を書いた書類をメルビンの方に向けると、メルビンは白衣の胸ポケットからペンを取り出した。
「では、御署名を」
その手は震えていた。メルビンは震えを抑え込むように、一度前腕を抑えた。
だが、震えは止まらなかった。
硝子のぶつかる高い音が小刻みに響く。
メルビンの異形化した手指が震えて鳴っているという事実に、レミは遅れて気が付いた。
「……アベラール主任?」
「ッ……!」
ペン先が紙に触れ、名を書きかけた。
だがそれは、文字の形を成さなかった。
呼吸音が変わった。
深く重い咳の音に交じって、硝子片が空中を舞った。
それと同時に、机上の簡易魔力計の針が振り切れた。
指先からペンが滑り落ちる。
メルビンが倒れるのと同時に、レミは立ち上がった。
「医療棟へ連絡を」
「はっ」
命令を受けた副官が部屋を出る。
床に崩れたメルビンに意識はなかった。レミは倒れたメルビンの身体を動かし、気道を確保する。
息は荒い。病変した首筋が脈打っている。額には多量の汗が滲んでいる。
副官が出て行ってからほどなくして、医療棟から何人かの人間がやってきて、担架で彼を運び出した。
レミはそれを黙って見ていた。
そして誰もいなくなった部屋で、メルビンが書き損じた書類に目を落とした。
紙の上には、署名ではなく、震えた線だけが残っていた。
対象者は意識不明。
署名は未完了。
撤回は受理前。
メルビンの拒否の意思を、レミは聞いた。
その声は明瞭だった。だが。
(――書面上は成立していない)
最早効力を持たない拒否書を、未成立書類の束へ移すと、新たな書類に新たな文章を記した。
メルビン・アベラール主任、急性深層変質発作。
軍務省附属深層魔術医療棟へ搬送。
緊急搬送条件、成立。
ブランシュ・コーン研究員は至急来棟されたし。
封蝋を押し、速達の魔導符を貼る。
ブランシュがそれを受け取ったのは、それから一時間も経たないうちだった。




