硝子の呼吸
ブランシュは水槽の中のネズミを見た。
変異したネズミはまだ生きている。相変わらず、同居している個体には無関心だった。
関心を向けられなくなったネズミは、以前よりも鳴き声を上げることが多くなった。まるで関心を惹こうとしているようだった。
だが、変異したネズミはそちらを見ることはない。毛繕いをし、食事をし、水分を摂り、排泄を行う。
まるで生きることに最適化されたようだった。言語化できない何かが欠けているような気がした。
手に持った資料に目を落とす。
主任は明確に拒絶した。これは最早無用の長物だろう。
そう思い、廃棄箱に一つずつ落としていった。軍部の資料。ネズミで行った実験記録。
だが、メルビンの魔力波形と個別調整用術式の書類を手に取った時、動きが止まった。
主任の一部を棄するようで、躊躇われた。
ブランシュはそれを暫く眺めていた。そんな時だった。
机上の魔導符が反応した。
軍務省からの速達だと気づいたブランシュは、すぐにその封を開けた。
メルビン・アベラール主任、急性深層変質発作。
軍務省附属深層魔術医療棟へ搬送。
緊急搬送条件、成立。
ブランシュ・コーン研究員は至急来棟されたし。
端整な文字で書かれたその文書を読んだ時、ブランシュは眩暈がして、机に凭れ掛かった。
(神よ……)
普段信じてなどいない神を呪った。
ブランシュはこの計画そのものを取り消したいという旨の文書を、レミに速達で送ったばかりだった。
手に持った書類と廃棄箱に捨てた書類を、全て鞄の中に詰める。
猶予がないかもしれない。
とにかく、まず軍務省の医療棟へ行かなければ。
ブランシュは足早に部屋を出た。
*
医療棟の廊下では、レミが腕を組んで立っていた。
レミは息を切らしたブランシュの姿を見ても尚、その表情を崩さなかった。
「お待ちしていましたよ」
「少佐、主任は……」
「詳細は医師から聞いてください。こちらへ」
促され、ドアを開ける。部屋の中央では、メルビンがベッドに横たえられていた。
彼の細い腕はその殆どが硝子質に変質していた。無数の管が繋げられている様子は、酷く無機的に見えた。
その中央で、呼気が浅く、微かに、その命を主張していた。
ブランシュが声を掛けても、応答はなかった。
ベッドの傍らに立っていた軍医が頭を振る。
「肺胞の硝子化が進んでいます。通常の回復魔法を入れると、魔力脈がさらに割れてしまう。延命措置を施していますが……長くは保ちません」
それは即ち、施術の条件が成立しているということだった。
レミを一瞥する。彼はメルビンを見下ろしたまま、静かに口を開いた。
「あなたからの連絡は受け取っていました。ですが、書面上は撤回はまだ成立していません」
「主任は……何か言ってましたか」
レミは僅かに間を置いた。
「アベラール主任は、ご本人の意思で搬送先指定の撤回に来庁されました。併せて、地底帰化安定術式の施術を拒否する。そう明確に仰っていました。口頭では」
「口頭では、とは」
ブランシュの声は掠れていた。
レミは懐から一枚の書類を取り出した。紙の下部には、署名になり損ねた震えた線が残っている。
「撤回手続き、および緊急適用拒否書です。アベラール主任は署名直前に発作を起こされました。したがって、書面上は未成立です」
「ですが、拒否はしたんでしょう」
「ええ。私は聞きました」
レミは淡々と頷いた。
「その上で、現行の搬送先指定は有効です」
ブランシュは、書類の上の線を見た。
確かに、名前ではない。だが、それが何を拒もうとしていたのかは、嫌というほどわかった。
沈黙したブランシュに対し、追い打ちのように軍医が告げる。
「通常医療での回復見込みはありません」
「延命措置は、どのくらい保ちますか」
「数時間。短ければ、一時間以内です」
――主任は拒んだ。自分も、やめようとした。
そのために、資料を処分しようとしていた。
それなのに、諦めきれなかった事実を突きつけるかのように、鞄の中に術式がある。
ブランシュは、ベッドの上のメルビンを見た。
先日自分を見て困った様に笑った面影は、少しも残っていない。
主任の言葉を守れば、主任は死ぬ。
主任の命を守れば、主任の意思を裏切る。
どちらを選んでも、もう元には戻らない。
メルビンは苦しそうに眉根を寄せている。呼吸が儘ならないようだった。
メルビンは延命を拒んだ。
だが彼の肉体は違う。
浅い呼吸で、変質に蝕まれながら、それでもその僅かな命の糸に縋っているように見えた。
ブランシュは思った。こんなに苦しむくらいならいっそ、一思いに死なせてやってほしいと。そして、そんな思考に至った自分を心底悍ましく思った。
その逡巡は狼狽の形をして表に出た。
「迷っている時間はありませんよ」
無機質なレミの言葉が耳に届く。
それと同時に、熱を持った己の感情がすっと静まり返っていくのを、ブランシュは感じた。
(――私の意思が弱いことを、赦さなくて良いです。主任)
(そんなことは、良いですから、どうか)
鞄を開け、一度は捨てた書類を手に取る。
ブランシュは顔を上げた。
軍医が、レミが、そして眠るメルビンが、同じ沈黙の中にいた。
「施術の準備を」
それは、自分で思っていたよりも、静かな声だった。




