アベラール症例
共和国歴四十七年 蝉の羽月 月齢:満月
アベラール症例記録
地底性変質進行停止、呼吸機能回復
生体魔力回路再構成完了
老化反応、停止
記憶保持、言語応答正常
術後経過は安定している。
ブランシュは観察室の扉を開けた。
記録から病状が安定していることは確認済みだが、施術から実際に会うのは今日が初めてだった。
メルビンはベッドの上で、上半身を起こしている。窓の隙間から、青い空を見つめていた。
黒髪は殆どが白い色に変わっていた。
病衣の隙間から見える首や腕の硝子質は以前のように脈打ってはおらず、初めからそうであったかのように静かに存在している。
肩が規則的かつ緩やかに上下している。呼吸は正常なようだった。
「主任」
ブランシュの声掛けに、メルビンは振り返った。
青い瞳がブランシュを捉えた時、ブランシュは、何か違和感を覚えた。
そしてメルビンは口を開く。
「はい。ブランシュ・コーン研究員」
抑揚のない声が響いた。
ブランシュは、言葉が出なくなった。
主任は、私のことを「ブランシュ」と呼んでいた。――認識に異常が発生している?
ブランシュは床にしゃがみこみ、メルビンに視線を合わせた。
「……私が、わかりますか」
震える唇から震えた声が出た。
メルビンは答える。
「識別可能です。あなたはブランシュ・コーン。深層魔術生体研究室所属。私の術式適用に関与した研究員です」
資料を読み上げているだけのような声色で、淡々と羅列する。
ブランシュは「あ……」と呟き、そして、口を噤んだ。
反射的に理解を拒絶した。その言葉の全てが、メルビンが自分に対して放っている言葉だと思いたくなかった。
そして、一縷の可能性を考えた。
もしかしたら、メルビンはただ怒っているだけなのかもしれない。
実際には何の異常もなくて、ブランシュに対して当てつけでこのように対応しているだけなのだと。
そうであってほしいと。
「すみません、主任。私は……あなたの意思を、裏切りました」
そう言って、深々と頭を下げる。
どうか怒ってくれ。赦さなくていい。失望してくれてもいい。拒絶でもいい。
縋るような気持ちで返答を待つ。
メルビンは少し考えた。そして、間を置いて静かに告げた。
「謝罪の意図は理解しました」
ブランシュの願いに反して、メルビンはただ、言葉の意味を処理しただけだった。
ブランシュは頭を上げ、メルビンの顔を見た。その表情は喜怒哀楽のいずれでもない。そんな姿が見るに堪えなくて、ブランシュはメルビンの肩を掴んだ。
「怒ってください、主任。どうか、どうか……」
「何故です」
「私はあなたの願いを裏切ったんですよ!」
「生命維持の観点からは合理的判断でした」
「ッ……主任……」
手がメルビンから離れる。そしてブランシュは、ベッドの側に崩れ落ちた。
メルビンは、それをただ無表情で眺めていた。
そうして、どのくらい時が過ぎただろうか。ベッドの端が涙で濡れた頃、扉が不意に開いた。
ブランシュは白衣の袖で顔を拭い、そちらを見た。涙でぼやけた視界に、軍服の輪郭が浮かんでいた。
「御取込み中でしたか」
「……何ですか」
レミの言葉に対して、ブランシュは低く返した。その涙声を気にする様子もなく、レミは淡々と告げる。
「アベラール症例は、軍務省にとって極めて重要な成果です」
「……症例」
「正式分類です。地底帰化安定術式の、現時点で唯一の高適合成功例ですので」
そう言って、レミは一つの袋を差し出した。
ブランシュは意味が解らないままそれを受け取る。重みで腕が少し沈んだ。
「軍からの報奨金です。アベラール主任とコーン研究員の多大なる貢献に感謝します」
レミは厳かに敬礼した。そして一礼すると、部屋を後にした。
その足取りに迷いはなかった。
ブランシュはレミの背を黙って眺めていた。その後も、閉じた扉を呆然と見ていた。
そして、考えた。
主任は生きている。
呼吸をしている。
記憶もある。
私の名を識別できる。
病変は止まった。
そう。成功はしたのだ。
メルビンを見る。彼はまた、窓の外を見つめていた。
ブランシュがそこに存在していることなど、処理を終えた情報の一つに過ぎないように。
吹き込む風が、彼の白髪を撫でつけている。
彼はまだ、私を見ているだろうか。
不味い薬草茶を淹れてくれるだろうか。
焼き菓子で顔を綻ばせてくれるだろうか。
不器用な私を、笑ってくれるだろうか。
ブランシュはようやく理解した。
私が残したかったものは、彼の肉体でも、頭脳でも、記憶でもなかった。
私を見て、叱って、困って、笑って、許そうとしてくれる、感情の揺らぎそのものだった。
それを奪ったのは、他でもない、私だ。
*
かつて、アベラール主任の赤字は、容赦がなかった。
語義が曖昧。根拠薄弱。推論が二段飛んでいる。結論を急ぐな。
その全てが彼の優しさだったことを、失ってからようやく理解した。
数日後、研究室に戻ったメルビンの机の上には、新しい報告書が置かれていた。
メルビンはそれを読み、何も書き込まずに返した。
「問題ありません」
それだけだった。
余白は、白いままだった。




