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卯月 ―高二 拓人―

 四月の体育館は、まだ底冷えがした。


 新学期が始まって三週間。仮入部の一年生がまだ残っていて、男子バレー部のコートはいつもより騒がしかった。拓人はネットの支柱を運びながら、一年生にボールかごの場所を教えていた。


 誰よりも早く来てネットを張るのは、一年のころからの習慣だった。好きだったからだ。床でボールが跳ねる音も、シューズが鳴る音も。


 彼女ができたのは、一年の秋だった。


 バドミントン部の同じクラスの子だった。バド部は週に何度か同じ体育館を半分ずつ使っていて、彼女はよく、壁際に座りこんで友達としゃべっていた。ラケットを振っているところは、あまり見たことがなかった。


 文化祭の片付けのあと、その子に呼び止められた。


「ずっと見てたんだよね。クラスでも面白いし、あと、顔も好み」


 最後の一言は、冗談なのか本気なのか分からなかった。


 それまで、誰かを好きになるということが、拓人にはよく分かっていなかった。告白されて、うん、と答えて、それで何が変わるのかも知らなかった。


 変わったのは、毎日だった。夜に携帯が光る。休み時間に、廊下の向こうから手を振られる。日曜に駅で待ち合わせて、何をするでもなくショッピングモールを歩く。自分がいないところでも、誰かが自分のことを考えているらしい。お付き合いって、こういうことか、と思った。


 二年でクラスが離れてからは、メールの返事が、少しずつ遅くなっていたけれど。


 六月の県大会が終われば、三年生は引退する。八月の全国大会に行けるようなチームではない。目標は、県のベスト16。それが終われば、ようやく試合に出られる。一年間ずっとベンチから声を出してきた拓人にとって、それはもう、すぐそこまで来ていた。


 キャプテンは、三年の先輩だった。


 明るくて、冗談が好きで、いつも部の真ん中にいた。入部したばかりの拓人にも、気さくに話しかけてくれた。スパイクの打点は高くなかったが、レシーブは部でいちばんうまい、と先輩自身がよく言っていた。


 一年の夏を過ぎたあたりから、拓人の背は急に伸びた。手足が長くなると、それまで届かなかったボールに届くようになった。先輩が拾えないボールを、拓人が拾う場面が、少しずつ増えていった。


 先輩は、そういうとき、いつも笑って「ナイス」と言ってくれた。


 だから拓人は、先輩を信じていた。


 顧問は体育の先生で、バレーの経験はなかった。練習のメニューも、試合のメンバーも、ほとんどキャプテンに任せていた。


 拓人は、ずっとベンチだった。練習では誰よりもボールを拾っていたし、「お前のほうがうまいだろ」と先輩たちがいないところで言ってくれる同級生もいた。それでも、試合で名前が呼ばれるのは、いつも三年だった。この春、一年生が入って最初の練習試合では、ベンチ入りの十二人にすら入らなかった。拓人の代わりに、入部して一週間の一年生がユニフォームを着ていた。


 それでも、不満を口にしたことはなかった。三年には三年の最後があるのだと思っていた。もう少ししたら自分たちがチームを率いるんだと。


 その日、顧問は出張で、練習は三年が仕切っていた。いつもより三十分早く、キャプテンが「今日はここまで」と手を叩いた。


 練習のあと、体育館の隅に、男子の部員が集められた。キャプテンを真ん中に、三年が六人。その横に、スタメンに入っている二年の数人が、少し居心地悪そうに並んでいた。


「県大会が終わったら、引退会やるから。焼肉。部費から出すことにしたんで」


 キャプテンが、いつもの明るい声で言った。三年の誰かが拍手をして、何人かが、おお、と声を上げた。


 拓人は、一瞬、意味が分からなかった。


 部費は、毎月みんなで少しずつ積み立ててきたものだった。夏に、県外の強豪校との遠征に行くための金だ。三年が引退したあとの、新しいチームの最初の遠征。拓人がようやくコートに立てるはずの遠征だった。


「それ、夏の遠征の分ですよね」


 気づいたら、口に出していた。


 拍手が、止まった。


「まあ、そうだけど」キャプテンは、笑ったまま言った。「三年の最後なんだし、いいだろ。もう決まったから」


「誰と決めたんですか」


「三年と、こいつら」


 キャプテンが、スタメンの二年を顎で示した。そいつらは、誰も目を合わせなかった。


「俺ら、聞いてないです」


「だから今、言ってんじゃん」


 横にいた副キャプテンが、わざとらしくため息をついた。


「なに、拓人。文句あんの?」


「文句っていうか……遠征の分、みんなで積み立ててきたじゃないですか。それを、相談もなしに」


「相談したら、お前、反対したろ」


 別の三年が、半笑いで言った。


「そりゃ、しますよ」


「ほらな」


 三年の何人かが、顔を見合わせて笑った。何がおかしいのか、拓人には分からなかった。


 拓人は、三年の顔をひとりずつ見た。一年間、この人たちと同じコートにいた。練習のあとにコンビニでアイスを食べて、試合に負けた帰りのバスで一緒に泣いた。仲間だと思っていた。


「一年間、このチーム、仲いいと思ってました。なのに、相談もなしに決めて、決まったから従えって言うなら、俺は、先輩たちを信頼できません」


 体育館の外で、カラスが鳴いた。


 誰も、すぐには何も言わなかった。


「……信頼、だって」


 最初に口を開いたのは、副キャプテンだった。鼻で笑っていた。


「重っ」


「てかさ、お前、最近ちょっと調子乗ってない?」と、別の三年が言った。「ちょっと拾えるようになったくらいでさ」


 笑い声が、ぱらぱらと起きた。誰も、声を荒げてはいなかった。それが、かえって怖かった。


 拓人は、キャプテンを見た。この人なら止めてくれる、と思った。一年のころから、いつも笑って「ナイス」と言ってくれた人だ。


 キャプテンは、笑っていなかった。初めて見る顔だった。


「拓人さ」


 声は、静かだった。


「信頼できないなら、いなくていいよ」


「だよな」と、誰かが言った。


「別に、お前ひとりいなくても回るし」と、また別の誰かが言った。


 キャプテンは、最後まで少しも声を荒げなかった。


「辞めれば?」


 拓人は、キャプテンの顔を見た。冗談だと言ってくれるのを、少しだけ待った。


 三年たちは、もう別の話をしながら、部室のほうへ歩きはじめていた。焼肉、どこにする。食べ放題でいいだろ。そんな声が、遠ざかっていった。


 同級生の部員と目が合った。そいつは、すぐに目をそらした。


 あとで聞いた話では、誰も納得はしていなかったらしい。それでも、みんな黙って従うことにした。言い返せば、次は自分の番になる。部活を続けたいなら、それしかなかった。


 責める気にはなれなかった。拓人がそいつらの立場でも、たぶん同じことをした。


 拓人は、練習着のまま体育館を出た。ネットの向こうの女子のコートでは、まだスパイクの音が続いていた。


 翌日の帰りのHRのあと、担任に呼ばれた。担任は、男子バレー部の顧問だった。


 体育準備室は、ボールとマットのゴムの匂いがした。顧問はパイプ椅子に座ったまま、困ったように頭をかいた。


「三年と揉めたんだって? 何があった」


 拓人は、部費のことを話した。遠征のための積立だったこと。誰にも相談がなかったこと。決まったから従え、と言われたこと。


 顧問は、腕を組んで黙って聞いていた。それから、大きく息を吐いた。


「……そうか。それは、俺も聞いてなかったな」


 部費のことは、こっちでもう一回話をする。だから、戻ってこないか。顧問はそう言った。


 拓人は、少し考えるふりをした。答えは、もう決まっていた。


「すみません。もう、チームとして信頼できないので。無理です」


 自分の口から出た声は、思ったより落ち着いていた。


 あと一か月半だった。六月の県大会が終われば、三年は引退して、拓人はようやくコートに立てるはずだった。それを分かっていて、自分で手放した。


 準備室を出て、渡り廊下を歩いているとき、ふと、中学の顧問の顔が浮かんだ。


 小学生のころ、地域のスポーツ少年団で、初めてボールの触り方を教えてくれた人だった。その人は地元の中学でバレー部の顧問をしながら、もう何年も、週末には少年団の子どもたちを見てくれていた。中学に上がった拓人は、迷わずその人の部に入った。レシーブの構えも、ボールの下に入る足の運びも、声の出し方も、全部あの人に教わった。


 中学最後の試合が終わった日、相手チームが帰ったあとの体育館で、その人は部員を輪にして座らせた。ひとりずつの顔を、ゆっくり見回してから言った。


「どんなスポーツでもいい、スポーツを続けてほしい。一生運動をしてほしい。それがバレーだったら先生は本当にうれしい」


 はい、と誰かが答えた。続けます、と別の誰かが言った。気づけば輪の全員が泣いていて、拓人も、しゃくりあげながら何度もうなずいた。ずっと続けます、と言った。


 あれから、まだ二年もたっていなかった。


 後悔は、していないつもりだった。


 その週の木曜日、駅前のファストフード店で、彼女に部活を辞めたことを話した。


 本当は、誰かに聞いてほしかった。先輩のことも、部費のことも、中学の顧問との約束のことも。うまく話せる自信はなかったけれど、彼女になら、言える気がした。


 彼女は、ストローをくわえたまま聞いていた。


「え、辞めたの? もったいなくない?」


「……うん、まあ」


「そっかあ。まあ、拓人が決めたんならいいけど」


 それで、話は終わった。彼女は携帯を開いて、友達からのメールに返信を打ちはじめた。拓人は、残りの説明を、冷めたポテトと一緒に飲みこんだ。


 それから、メールの返事は、だんだん来なくなった。来ても、一言だけだった。


 二週間ほどたった日の帰り、駅のホームで、彼女に呼び止められた。電車が来るまでの数分間で、話は終わった。


「最近の拓人さ、なんか元気ないよね」


「そうかな」


「前は、もっと楽しそうだったじゃん。部活の話してるときとか。今は一緒にいても、ずっと上の空だし」


 彼女は、少しだけ困ったように笑った。


「なんか、つまんなくなった。別れよ」


 彼女は、反対側のホームへの階段を上っていった。一度も、振り返らなかった。


 拓人は、来た電車に乗らなかった。次の電車も見送った。


 彼女が悪いとは、思わなかった。好きになってくれたのは、バレーをしている自分だった。そのバレーを手放したのは、自分だ。


 支えてほしかったのだと気づいたのは、ずっとあとになってからだった。そのときは、ただ、そうか、と思っただけだった。


 その夜、押し入れの奥から、しばらく触っていなかったゲーム機を引っぱり出した。

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