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小望月

 九月の夜は、昼間の暑さをまだ少しだけ残していた。


 開け放したベランダの窓から、どこかの植え込みで鳴く虫の声が入ってくる。夕食の皿はもう片付けられ、テレビではバラエティ番組が、誰にも見られないまま流れていた。都内の十階建てマンションの六階。三十八歳の拓人は、ダイニングテーブルを拭いていた布巾を置いて、顔を上げた。


「パパー! おつきさま、まんまるー!」


 五歳の息子が、ベランダの窓に張りついて叫んでいた。


 拓人は息子の隣にしゃがんだ。向かいのマンションの屋上の少し上に、月が浮かんでいた。ほとんど満月だが、よく見ると、左の縁がほんのわずかに削れている。


「惜しい。ちょっとだけ、まだ欠けてるんだ」


「えー、まんまるだよ!」


「明日がほんとのまんまる。でもきれいだから写真、撮ろうか」


 サンダルをつっかけてベランダに出て、スマホを構える。二本の指で画面を広げ、月を真ん中に収めて、シャッターを切った。


「見て」


 息子が画面をのぞき込む。数秒の沈黙。


「……ちっちゃー!」


「え」


「おつきさま、もっとおっきいもん! ほら!」


 息子は拓人の手からスマホをひったくるように取ると、腕をいっぱいに伸ばして、画面と夜空を並べてみせた。


「それにね、うさぎ、いないよ!」


 言われて見比べると、たしかにそうだった。夜空の月には、ぼんやりと模様が浮かんでいる。画面の中の月は、白く光っているだけの、ただの丸だった。


 拓人はスマホを受け取って、角度を変えて撮り直した。結果は同じだった。


「おかしいなあ。パパのスマホ、けっこう高いんだけどな」


「うさぎ、いなーい! ちっちゃー!」


 息子はけらけら笑い、それから急に声をひそめた。


「あのね、あしたね、パパのおたんじょうびのね」


「ちょっと! 内緒って言ったでしょ!」


 ソファから、十歳の娘が鋭い声を飛ばした。膝の上の文庫本の下に、色画用紙の端がはみ出している。娘は拓人と目が合うと、それを本ごと抱えて、無言で子ども部屋に引っ込んでいった。


「……なんでもない」


 息子が、両手で口をふさいで言った。


 拓人の誕生日は、本当は来週の平日だ。それを明日の土曜に祝うと決めたのは、妻のようだった。


「当日でいいよ。ケーキ買って帰るくらいで」と拓人が言うと、妻は手帳から顔も上げずに答えた。


「平日だと、どっちかに急に仕事が入ったら流れるでしょ。土曜。もう決めたから」


 それきり、議論にはならなかった。


 夕方、麦茶を取ろうと冷蔵庫を開けたとき、拓人は気づいていた。野菜室の奥、キャベツの陰に、生クリームのパックが二つと、いちごが一パック、隠すように押し込まれていた。


 この家の台所に立つのは、ふだんは拓人だ。妻は、拓人が散らかしたあとを片付ける係で、自分から料理をすることはほとんどない。それでも年に三度、拓人と子どもたちの誕生日だけは、妻がキッチンに立つ。買ってきたスポンジに、黙々とクリームを塗る。いちごの並べ方が、毎年、少しずつうまくなっている。


 拓人は、何も見なかったふりをして、麦茶だけ取って扉を閉めた。


 今、そのキッチンでは、妻が拓人の置きっぱなしにした布巾をきちんと畳み直し、コンロのまわりを拭いていた。何も言わない。言わないけれど、拓人が散らかしたものは、いつのまにか元の場所に戻っている。


「ねー、月きれいだよ」


「見えてる」


 顔も上げずに、妻は答えた。それから少し間を置いて、「明日、晴れるといいね」とだけ付け足した。


 写真には写らない月と、秘密を守れない息子と、画用紙を隠して逃げた娘と、背中で返事をする妻。


 拓人は、ベランダの手すりに肘をついて、小さく笑った。


 明日は、満月だ。


◇


 子どもたちが寝静まったのは、十時を少し過ぎたころだった。


 娘の部屋の明かりが消え、息子の寝息が廊下まで聞こえてくるようになってから、拓人はベランダに出た。昼間に干した洗濯物が、まだ物干し竿に並んでいる。


 干して、取り込んで、畳む。それが拓人の仕事だ。洗うのは妻の仕事で、そこには越えてはいけない線がある。


 結婚して間もないころ、妻が残業で遅くなった日に、気を利かせたつもりで洗濯機を回したことがある。白いシャツも、色の濃いタオルも、妻のお気に入りのニットも、全部まとめて放り込んで、スタートボタンを押した。翌朝、うっすら水色に染まったシャツと、ひと回り縮んだニットを並べて、妻は長いあいだ黙っていた。それから、静かに一言だけ言った。


「二度と触らないで」


 怒鳴られるより、よほど怖かった。それ以来、拓人は洗濯機のボタンに触れていない。


 乾いたタオルを竿から外すと、日向の匂いがかすかに残っていた。息子の小さな靴下が、洗濯ばさみに片方だけぶら下がっている。


 ふと顔を上げると、月が、さっきよりずいぶん高いところにあった。


 息子と見たときよりも小さく、白く、冴えて見える。左の縁は、やはりほんの少しだけ欠けていた。


 明日は満月で、来週は誕生日だ。三十九になる。


 誕生日が近づくと、毎年、ひとつだけ浮かぶ数字がある。自分の誕生日の、ちょうど一週間前。九月六日。


 三日前だった。


 誰の誕生日かは、わざわざ思い出さなくても、知っている。


 もう二十年以上、その日に何かをしたことは一度もない。おめでとうと言う相手もいなければ、言う理由もない。ただ、カレンダーの九月のページをめくるたびに、その数字だけが、ほかの数字より少しだけ浮いて見える。


 拓人は、片方だけの靴下を手のひらにのせたまま、月を見上げていた。


 背中で、窓の開く音がした。


「靴下、もう片方はかごの中」


 妻だった。パジャマに着替えて、髪をひとつにまとめている。


「あ、ほんとだ」


「明日、早いからね」


「うん」


 妻は窓を閉めかけて、少しだけ手を止めた。


「……月、ほんとにきれいだね」


 それだけ言って、窓が閉まった。


 拓人は、かごの中からもう片方の靴下を拾い上げて、二つを重ねた。それから、洗濯物を抱えて、部屋に戻った。

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