第八話
十月。
空気は研ぎ澄まされ、吐く息にわずかな白さが混じり始めていた。
秋季大会――その幕が、静かに上がる。
比呂は、その初戦で先発マウンドに立った。
投げる球は、ただひとつ。直球のみ。
だが、その一球が、すべてをねじ伏せた。
——154キロ。
空気を裂く音だけが残る。
バットはことごとく空を切り、かすりもしない。
気づけば、試合は終わっていた。
ノーヒットノーラン。
スタンドが揺れる。
歓声が波のように押し寄せ、グラウンドを飲み込んだ。
その中心に、比呂は立っていた。
翌朝、新聞の一面を飾ったのは、その名だった。
《消えた天才・水嶋比呂、公立校で完全復活》
記者が集まり、カメラが並び、
無名だったグラウンドが、一夜にして舞台へと変わる。
その光景を、誰よりも嬉しそうに見ていたのは――愛だった。
「すごいね、比呂」
その笑顔は、誇らしげで、そしてどこか儚かった。
次の日
グラウンドの空気は一変していた。
フェンス際には記者が並び、選手たちの一挙手一投足を追っている。
その中の一人が、ふと足を止めた。
視線の先にいたのは、愛だった。
「君は……神崎愛さんかな?」
唐突な問いに、愛はわずかに首を傾げる。
「そうですけど……?」
記者の目が、懐かしさを宿して輝いた。
「やっぱり。少年野球の頃、君のファンだったんだ。
“消えた天才バッター”――覚えてるよ」
その言葉に、時間が一瞬だけ止まる。
愛の表情が、わずかに硬くなった。
「中学で名前を聞かなくなって、不思議だったんだ。
今はここで野球を?」
短い沈黙のあと、愛は微笑んだ。
「私は……マネージャーです」
そして、少しだけ間を置く。
「それと――私のことは記事にしないでください」
記者は意外そうに眉を上げた。
「どうして? “消えた二人の天才が同じ無名校で――”」
最後まで言わせなかった。
「比呂に、集中してほしいんです」
声は静かだった。
けれど、はっきりとした意志があった。
記者はその温度に押されるように、言葉を飲み込む。
「……わかった」
そう言って、比呂の方へ向かっていった。
愛は、しばらくその背中を見送っていた。
二回戦当日。
ウォーミングアップをしながら、比呂は違和感に気づいた。
——いない。
いつも視界のどこかにいるはずの姿が、ない。
胸の奥が、ざわつく。
「監督」
気づけば声に出していた。
「愛はどうしたんですか?」
「連絡は来てない」
それだけだった。
比呂はすぐにスマホを取り出す。
発信。
呼び出し音。
——繋がらない。
LINE。
——既読はつかない。
嫌な予感が、形を持って膨らんでいく。
試合開始が迫る。
落ち着かないまま、マウンドに上がった。
結果は――崩壊だった。
ボールは抜け、引っかかり、
ストライクゾーンから外れていく。
六回。
まるで自分から崩れるように、点を失った。
キャッチャーがマウンドへ来る。
「どうした。顔色悪いぞ」
答えられない。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。
ベンチから声が飛ぶ。
「交代だ!」
その一言で、張り詰めていたものが切れた。
「なんでだよ!」
思わず怒鳴る。
キャッチャーは、静かに言った。
「神崎さんのこと、心配してんのはお前だけじゃない」
「⋯⋯頭、冷やせ」
何も返せなかった。
マウンドを降りる。
ベンチに戻るなり、スマホを開く。
——既読は、つかない。
胸が締めつけられる。
呼吸が浅くなる。
試合は、味方の踏ん張りで逆転勝ちを収めた。
歓声が上がる。
その中で、比呂だけがうつむいた。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
そのとき。
ポケットの中で、震動が走る。
スマホ。
画面に表示された名前を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
——愛。
《ごめんごめん、転んで頭打ったんだよ》
《うちの母親が取り乱して救急車呼んじゃって》
《検査入院することになった》
文面は軽い。
いつも通りの、ふざけた調子。
けれど――
嫌な予感だけが、消えない。
《どこの病院だ》
送信。
数秒後、返ってきた病院名を見た瞬間、
比呂は走り出していた。
夕暮れのグラウンドを抜ける。
歓声も、呼び止める声も、すべて置き去りにして。
息が切れる。
肺が焼ける。
それでも止まらない。
ただひとつの場所へ向かって、
ただひとりの名前だけを胸に抱えて。
病院の廊下には、消毒液の匂いが沈み込むように満ちていた。
その中を進む比呂の足音だけが、やけに乾いた音で反響する。
病室の前で立ち止まり、一度だけ深く息を吸う。
胸の奥に溜まったものを押し込めるようにして、ドアを開けた。
「……やあ」
声をかけるより先に、視線がぶつかる。
ベッドの上で、愛が笑っていた。
頭には白い包帯。痛々しいはずなのに、その表情だけはいつもと変わらない。
その違和感に、比呂は思わず声を荒げた。
「……お前、連絡くらいしろよ」
愛は悪びれもなく舌を出す。
「ごめんごめん。試合の邪魔したくなくってさ。
ちゃんとテレビで見てたよ——ひどかったねぇ」
軽やかな笑い声。
その調子に反射的に言い返しかけて、比呂は言葉を飲み込んだ。
「……お前のせいで……まあいい」
吐き出した言葉は、思っていたよりも弱かった。
笑っている愛を見ていると、胸の奥で強張っていた何かが、わずかにほどけていく。
「で、いつ退院なんだ」
愛は視線を天井へ逃がす。
「精密検査するんだって。……一週間くらいかな。
大げさだよね」
軽く言う。だが、その笑顔はどこか輪郭が薄い。
「たぶん、準決勝には間に合うと思うよ」
比呂は、間を置かず頷いた。
「わかった。お前が帰ってくるまで、絶対に負けない」
「約束だからね」
愛はそう言って、手を差し出す。
比呂が首をかしげると、にやりと悪戯っぽく笑った。
「お見舞いは?」
「……そんな暇なかったんだよ」
「ひどいなあ」
わざとらしく目元を押さえる仕草。
比呂は小さく息を吐く。
「わかったよ。次、何か持ってくる」
「じゃあ、シュークリーム」
即答だった。
「……ほんと元気だな、お前」
呆れたように笑いながら、それでも視線はしばらく離せない。
「じゃあ……明日また来る」
「うん。また明日」
愛は、いつも通りの笑顔で手を振った。
その笑顔に背中を押されるようにして、比呂は病室を後にする。
ドアが閉じる。
足音が遠ざかる。
やがて、すべての音が途切れた。
静寂が戻った病室に、看護師が静かに入ってくる。
点滴カートの車輪が、床をわずかに鳴らした。
「……お友達は?」
「帰りました」
短い返事。
看護師の表情が、わずかに引き締まる。
「では、続けましょう」
その声には、先ほどまでの柔らかさはない。
愛の表情からも、笑みが消える。
「……はい」
その一言は、ひどく静かで、しかし確かな覚悟を含んでいた。
点滴の針がかすかに揺れる。
機械が規則正しく音を刻み始める。
先ほどまでとは、まるで別の時間が流れ出した。




