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君がいた奇跡  作者: あると


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第九話


病室を出た翌日、比呂はまるで何かを振り払うように、別人のような冴えを取り戻していた。

余計な感情は削ぎ落とされ、ただひとつの芯だけが残っている。

——勝つ。それだけだった。

三回戦。

比呂の投球は、相手を寄せつけなかった。

伸び上がる直球が寸分の狂いもなくミットへ吸い込まれていく。

スコアボードに並ぶゼロ。

最後の打者を打ち取った瞬間、スタンドが爆発した。

完封勝利。


三回戦を終えた足で、比呂はそのまま病院へ向かった。

汗の残る身体に、夕方の風が少しだけ冷たい。

手にした紙袋だけが、不思議と軽く感じられた。

中身は、約束のシュークリーム。

病室の前で立ち止まり、ノックもそこそこにドアを開ける。

顔を上げた愛の表情が、一瞬で弾けた。

「わあー! シュークリームだ!」

子どものように目を輝かせ、ほとんど奪うように袋を受け取る。

包みを開く手つきは妙に慣れていて、次の瞬間にはもう頬張っていた。

「……おいしい……」

頬を緩め、目を細める。

その無防備な顔を見ていると、比呂の胸の奥に溜まっていた硬さが、静かにほどけていく。

「だめだねー。転ぶなんて。やっぱ運動しないと」

軽口のように笑う。

比呂は、少しだけ眉を寄せた。

「お前、野球やってたのか?」

「してたよ。小学校のときはね」

愛はもう一口かじりながら、どこか誇らしげに続ける。

「実はね、すごいバッターだったんだよ、私」

「……女なのにか?」

言った瞬間、比呂はわずかに目を細めた。

引っかかる。

記憶の底で、何かがかすかに軋む。

「……そういえば、いたな。俺が出た小学校の大会にも。

 とんでもない打ち方する、女のバッターが」

ぽつりと零したその言葉に——

愛の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

クリームがついた指先。

その動きが、不自然なほど短く静止する。

「……そうなんだ」

返事は、わずかに遅れた。

さっきまでの明るさが、ほんの少しだけ薄くなる。

だが次の瞬間には、何事もなかったかのように笑った。

「明日も練習でしょ?

 もう帰って休みなよ」

軽い調子。

それ以上踏み込ませないための、さりげない線引き。

比呂は一瞬だけ迷い、そして頷いた。

「……わかった。また来る」

立ち上がり、手をひらりと上げる。

「うん。またね」

変わらない笑顔。

比呂が病室を出ていく。

ドアが静かに閉まり、廊下へと遠ざかる足音が、やがて完全に消えた。

残された静寂の中で、

愛はしばらく扉を見つめ続けていた。

さっきまで浮かべていた笑顔は、もうどこにもない。

そのとき、ノックも控えめに、看護師が入ってくる。

愛は、手にしていたシュークリームの箱をそっと閉じた。

「神崎さん、友達は帰りましたね?」

愛は視線を落としたまま、小さく頷いた。

「……うん。帰りました」

その声には、わずかな空白が混じっていた。

看護師が無言で点滴の準備を整える。

金属の触れ合う音が、やけに大きく響いた。

続いて、白衣の医師が病室に入る。

「神崎さん、体調はいかがですか」

形式的な問いかけ。

けれど、その目はすでに何かを覚悟しているようだった。

愛は一瞬だけ躊躇し、

ゆっくりと顔を上げる。

比呂の前では決して見せなかった、まっすぐな眼差し。

「……先生」

わずかな間。

「この治療が終わったら……私は、どのくらい生きられますか」

看護師の手が止まる。

時間が、ほんの少しだけ伸びたようだった。

医師はすぐには答えない。

視線を落とし、言葉を選ぶ。

そして、静かに告げた。

「……正確なことは、言えません」

愛の喉がかすかに鳴る。

医師は続けた。

「ただ——次に発作を起こした場合、外出は極めて難しくなります。

 状態によっては、そのまま……という可能性もあります」

言葉は淡々としていた。

だが、その内容はあまりに重かった。

病室の空気が、沈む。

愛は唇を強く噛んだ。

「……他に方法は?

 手術とか……」

わずかな希望を拾い上げるような問い。

しかし、医師は首を横に振る。

「現状では、推奨できません。

 成功率が低く、仮に成功しても——延命は限定的です」

はっきりとした否定だった。

愛の視線が落ちる。

シーツを握る指先に、力がこもる。

「……そう、ですか」

声は、不思議なほど落ち着いていた。

だがそのまま俯き、

肩がわずかに震える。

看護師が一歩近づき、そっと寄り添う。

「神崎さん……」

名前を呼ばれても、

愛はすぐには顔を上げなかった。

やがて、ゆっくりと息を整え、顔を上げる。

涙はなかった。

代わりに、静かな微笑みがそこにあった。

どこか、覚悟を含んだような——

「……続きを、お願いします」

その一言に、迷いはなかった。

医師は短く頷く。

看護師が再び手を動かし、点滴の準備が進んでいく。

透明な液体が、規則正しく滴り始めた。

甘い匂いの残る病室で、

まるで別の時間が、静かに動き出していた。


そして準々決勝。

相手は第4シード、盤石の強豪校。

——これを越えれば。

胸の奥で、たったひとつの言葉が反復する。

愛が帰ってくる。

試合は、息を呑むような投げ合いになった。

互いに一歩も譲らない。

比呂の球は冴えていたが、それでも相手打線は食らいつく。

七回表。

わずかな綻びだった。

疲労でほんの少しだけ浮いた一球。

その“わずか”を、相手は見逃さなかった。

鋭い打球が外野へ抜ける。

三塁ランナーが生還。

——0対1。

たった一点。

それが、あまりにも遠い。

ベンチへ戻る足取りが、わずかに重くなる。

胸の奥に、遅れて焦りが広がっていく。

八回は、互いに無得点。

そして九回裏。

スコアは変わらない。

負けている。

先頭打者、比呂。

だが、打球は高く上がり——凡フライ。

「……くそ」

噛み殺した声が、地面に落ちる。

うなだれる背中を、次の打者が強く叩いた。

「任せろ」

短い言葉に、迷いはない。

内野ゴロ。

しかし全力疾走で、わずかに一塁を駆け抜ける。

セーフ。

さらに次の瞬間、躊躇なくスタートを切る。

盗塁成功。

一死二塁。

続く打者は空振り三振——

だが、捕手がボールを弾いた。

「走れ!!」

ベンチからの叫び。

振り逃げ成立。

一塁セーフ。

一死一・三塁。

球場の空気が、一気に張り詰める。

マウンド上で、相手投手が感情を露わにした。

「おいっ……!」

その怒声が、ざわめきの上を突き抜ける。


病室。

愛はベッドの上で身を乗り出し、テレビにかじりついていた。

包帯の下で、鈍い痛みが脈打つ。

それでも視線を逸らさない。

祈るように、ただ見つめる。

「……比呂……」

かすれた声が、誰にも届かず消えた。


打席には四番。

チームで最も信頼される打者。

重圧すら、背負い慣れている男。

「任せろ。絶対返す」

静かな宣言。

ツーストライク。

追い込まれても、その眼は死なない。

そして——

振り抜いた。

乾いた快音が、空気を切り裂く。

白球は一直線に伸び、外野手の頭上を越えていく。

三塁ランナー、生還。

一塁ランナーも、迷わずホームへ滑り込む。

逆転。

サイレンが鳴り響く。

試合終了。

歓声が爆発し、スタンドが揺れる。

ベンチから選手たちがなだれ込み、歓喜が渦を巻く。


病室。

愛は両手で口元を押さえた。

「……よかった……」

涙が溢れ、止まらなかった。


グラウンドの隅で、比呂は小さく呟いた。

「……これで……愛が……帰ってくる……」

その瞬間、全身から力が抜けた。

膝が笑う。

視界が揺れる。

世界が、わずかに傾く。

一歩、踏み出そうとして——踏み出せない。

「おい、大丈夫か!」

駆け寄る仲間の声が、遠い。

肩を支えられる感触だけが、かろうじて現実をつなぎとめる。

笑おうとする。

だが、うまく形にならない。

歓声が、波のように押し寄せては遠ざかる。

光が滲む。

音がほどける。

その中心で、比呂の意識は、静かに沈んでいった。

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