第七話
しばらくして、愛は、ぱんっと手を払うように立ち上がった。
「……そろそろ帰ろっか」
明るい声だった。
そのまま一歩、踏み出した瞬間――
体がふらりと揺れた。
「っ……」
比呂はとっさに腕を伸ばした。
細い肩が、掌に収まる。
そのまま支え、砂の上に座らせる。
「大丈夫か」
愛は額に手を当て、少しだけ息を整えたあと、笑った。
「ごめんごめん、貧血かも。急に立ったからかな」
軽い言い方だった。
けれど、街灯に照らされたその顔を見て、比呂は言葉を失った。
白い。
さっきまでとは別人みたいに、血の気が引いている。
「……帰るぞ。歩けるか」
愛は少しだけ考えて、首を傾げた。
それから、いつもの調子で笑う。
「じゃあ……おんぶ」
「……はぁ」
ため息ひとつ。
比呂は背を向けてしゃがみ、手を差し出した。
細い腕が、肩に回る。
背中に乗った瞬間――
違和感が走った。
軽い。
思っていたより、ずっと。
砂を踏みしめて歩き出す。
波の音が、ゆっくり遠ざかっていく。
「重いって言ったらぶっ殺すからね」
背中で、くぐもった声がした。
「……言わねえよ」
少し間を置いて、ぽつりと続ける。
「……もうちょい食べてもいいくらいだ」
背中の気配が、わずかに動いた気がした。
けれど、返事はなかった。
そのまま、何も言わずに歩く。
街灯がひとつ、またひとつと流れていく。
足音と、波の音だけが続いた。
やがて、見慣れた家の前に着く。
「……もういい」
背中から声が落ちた。
比呂はしゃがみ、ゆっくりと体を降ろす。
重さが、離れる。
愛は一歩だけ距離を取って、振り返った。
いつもの笑顔だった。
「ありがと」
それだけ言って、扉を開ける。
光が漏れ、すぐに閉じた。
音もなく、静けさが戻る。
比呂は、その場に立ったまま動かなかった。
背中に残る、わずかな温もり。
そして――
あまりにも軽かった重さ。
それだけが、消えずに残っていた。
翌日、愛は来なかった。
教室はいつも通りだった。
笑い声と机の音が重なり、空気は何も変わっていない。
その中で――
ひとつだけ、空いている席があった。
比呂は一度だけ、その席を見た。
それきり、視線を外した。
昼になっても。
放課後になっても。
結局、一度も。
帰り道、スマホを取り出す。
《どうした》
送信。
画面は静かなままだった。
ポケットにしまう。
数歩歩いて、また取り出す。
何も変わらない。
閉じる。
気づけば、いつもと違う道に入っていた。
見慣れた家の前で、足が止まる。
灯りはついていない。
窓も暗い。
呼び鈴には触れなかった。
「……いないのかよ」
声はすぐに夜へ溶けた。
そのまま、引き返す。
次の日も、来なかった。
その次の日も。
三日目の夕方、通知音が鳴る。
画面に浮かんだ名前を見て、指が止まった。
《ごめんごめん、風邪こじらせちゃって》
《大事な試合の前にうつすとまずいから、お見舞いは来なくていいよ!》
《あと、練習サボったら許さないから》
いつもの調子だった。
比呂は、しばらくそのまま画面を見ていた。
それから、打つ。
《なんだよ》
少しだけ間を置いて、
《ゆっくり休め》
《心配するから、ちゃんと返せ》
送信。
――既読は、つかなかった。
比呂はスマホを握ったまま、顔を上げた。
夕焼けが、やけに低い。
風が吹く。
ふと、花火の後のことがよぎる。
背中に残った、あの軽さ。
白い顔。
比呂はゆっくりと息を吐いた。
スマホをポケットに押し込む。
それでも、
指先に残った違和感だけが、消えなかった。
一週間が過ぎた。
愛は学校に現れず、比呂のスマホに並ぶメッセージには、最後まで既読がつかなかった。
胸の奥に沈み続ける不安は、もう見ないふりができる重さではなかった。
そんなある日だった。
グラウンドでの練習中、背後から不意に声が落ちてきた。
「やあ」
振り返った瞬間、比呂の呼吸が止まる。
そこに立っていたのは――愛だった。
「……“やあ”じゃねぇよ」
気づけば怒鳴っていた。
自分でも驚くほどの大きな声だった。
「返信くらいしろよ!」
溜め込んだ一週間分の不安が、言葉になって噴き出した。
愛は肩をすくめ、いつもの調子で笑う。
「しょうがないじゃない。熱で寝込んでたんだから」
軽い口調。けれど、その笑顔はどこか薄い。
比呂は眉を寄せ、すぐに言い直した。
「……悪かった。怒鳴って」
「じゃあ、ひとつ言うこと聞いて」
「はあ?」
愛はわざとらしく目を潤ませる。
「怒鳴られた……ひどい……」
「泣くなよ!」
「じゃあさ、明日。土曜でしょ? 付き合いなさい」
ため息をひとつ。
「……わかったよ」
満足げに笑う愛を横目に、比呂は再びボールを追った。
けれど、胸のざわつきは消えなかった。
夜道を並んで歩く。
街灯の光が二人の影を長く伸ばしていた。
「なあ……」
比呂は、ずっと引っかかっていたことを口にする。
「身体、大丈夫なのか? それに……“病気”って、なんのことだよ」
愛は一瞬だけ視線を外し、それから軽く笑った。
「中学のときにちょっと入院しただけ。もう完治してるよ」
その言い方はあまりにもあっさりしていて、逆に何かを隠しているように聞こえた。
問い返す間もなく、愛は急に走り出した。
「おい!」
「こら、病み上がりだろ!」
慌てて追いかける。
だが、すぐに愛は立ち止まった。
「……あ、そっか」
冗談めかして笑う。けれどその体は壁に預けられ、肩で荒く息をしていた。
呼吸が深く、乱れている。
比呂の胸に、冷たいものが走った。
「一週間寝たきりだったから、体力落ちただけだよ」
そう言って、また笑う。
その笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。
家の前に着く。
愛は振り返り、短く言った。
「また明日」
それだけ残して、扉の向こうへ消える。
閉まったドアを、比呂はしばらく見つめていた。
胸騒ぎだけが、消えずに残った。
翌日。
待ち合わせ場所には、すでに愛がいた。
「どこ行くんだよ」
「まずはここ」
連れて行かれたのはカフェだった。
メニューを覗き込む愛の目が、子どものように輝く。
「これもいいし、これも……あ、これ絶対美味しい」
次々と注文する。
「おい……そんなに食えるのかよ」
「だって美味しそうなんだもん」
そして本当に、全部食べた。
ケーキの皿が空になるたびに、愛は満足そうに笑う。
その無邪気さに、比呂は言葉を失った。
そのあとも、服を見て、恋愛映画を観て、
気づけば空は夕焼けから夜へと変わっていた。
「そろそろ帰るか」
そう言うと、愛は小さく首を振る。
「もう一箇所、付き合ってよ」
「どこだよ」
「いいから」
有無を言わせず、手を引かれる。
着いたのは、夜の学校だった。
門は閉ざされている。
「おい、まずいだろ」
「いいのいいの。私たちの学校だもの」
軽やかに門を乗り越える。
呆れながらも、比呂も後に続いた。
グラウンドに出ると、愛は両手を広げてくるりと回った。
「わあ……誰もいない!」
「当たり前だろ」
月明かりに照らされた校庭は、昼とはまるで別の場所のようだった。
転がっていたボールを拾い、愛が投げる。
「ほら」
静かな夜の中、ボールの音だけが響く。
何度か投げ合ったあと、愛がふと動きを止めた。
空を見上げる。
「……きれい」
その声は、どこか夢の中のように淡い。
「なんか……掴めそう」
星に向かって、手を伸ばす。
届くはずのない距離。
「掴めないに決まってるだろ」
比呂が笑いながら言うと、
愛はゆっくりと手を下ろした。
そして、ぽつりと呟く。
「死んだら……あの星になるのかな」
その言葉は、夜の静けさに溶けていくようだった。
比呂の表情が一瞬で険しくなる。
「縁起でもないこと言うなよ」
愛は笑う。
けれどその笑顔は、今にも崩れそうに脆かった。




