第六話
試合が終わり、整列が解かれた瞬間だった。
ざわめきの中を、まっすぐに歩いてくる影がある。
速水だった。
その足取りは静かなのに、不思議と周囲の空気がぴんと張りつめていく。
やがて彼は、愛の目の前で立ち止まった。
ほんのわずかに、口元が緩む。
「……久しぶりだな、愛」
愛は一度も瞬きをせず、まっすぐに応じた。
「そうね。久しぶり」
その声は落ち着いていた。
だが、ほんの一瞬だけ視線が揺れたのを、比呂は見逃さなかった。
速水は愛を見つめたまま、低く問う。
「病気は……もういいのか?」
一瞬だけ、愛の視線が比呂へ流れる。
「完治したわ」
短い言葉。
けれど、それだけで十分だった。
速水は小さく息を吐く。
「そうか」
そして、間を置かずに続けた。
「なあ、うちの学校に来ないか?」
その一言に、比呂の胸が大きく跳ねた。
速水は淡々と告げる。
「こんな弱小校、お前にはもったいない。
うちなら、お前を甲子園に連れていける」
愛の眉がわずかに寄る。
「そんなこと言わないで」
その瞬間、比呂は二人の間に踏み込んだ。
「……うちのチームには、愛が必要なんだ」
速水は比呂を見て、鼻で笑う。
「必要? こんな弱小チームにか?」
拳を握りしめる。
悔しさと怒りが、喉元までせり上がる。
それでも比呂は、言い切った。
「次は必ず勝つ。
俺たちが甲子園に行く」
速水の目が細められる。
そこにあったのは嘲りではなく、興味だった。
「じゃあ——賭けるか?」
ゆっくりと、速水は愛を見る。
「俺らが勝ったら、俺と付き合え」
一瞬で、比呂の血が逆流した。
「ふざけんな。愛は物じゃねえ!」
速水は肩をすくめる。
「じゃあ、自信がないってことか?」
比呂が言い返そうとした、その時だった。
「……いいわよ」
静かに、しかしはっきりと、愛が言った。
「は!? おい、愛——」
振り向いた比呂をよそに、愛は速水をまっすぐ見据える。
「私たちが勝つから。
それでいいでしょ?」
迷いのない瞳だった。
速水は満足げに笑う。
「約束だからな」
そう言い残し、背を向けて去っていく。
残された空気だけが、まだ熱を帯びていた。
比呂は、隣に立つ愛を見た。
「……いいのかよ、あんなの」
愛は微笑んだ。
泣きそうで、それでも強い目で。
「守ってくれるんでしょ?」
その一言が、比呂の胸の奥に火をつける。
息を呑み、そして——頷いた。
「……わかったよ」
一歩、愛に近づく。
静かに、だが確かな声で言う。
「お前を——甲子園に連れていく」
愛はそっと目を伏せた。
浮かべた微笑みは、春の光よりも温かかった。
日が暮れるまで、練習は続いた。
最後の一球がミットに収まった頃には、グラウンドはすっかり闇に沈んでいた。
照明が落ちると、さっきまで響いていた声や音が嘘のように消え、世界は静寂に包まれる。
比呂はバッグを肩にかけ、校門へ向かった。
汗に濡れたシャツに夜風が触れ、ひやりと体を冷やす。
校門の前に、人影があった。
街灯の下で、静かにこちらを見ている。
愛だった。
「……何してんだよ、こんな時間に」
呆れたように言うと、愛は胸を張り、どこか照れを隠すように言った。
「喜びたまえ…
今日から君を、私のボディーガードに任命します」
比呂は思わず声を裏返す。
「は!? お前、おれんちと方向逆だろ!」
「こんな暗い中、か弱い少女が襲われたらどうするのよ」
当然のように返され、比呂は小さく呟いた。
「……か弱いって誰のことだよ」
「今なんか言った?」
愛が眉を吊り上げる。
比呂は観念したようにため息をついた。
「……わかったよ」
「よろしい」
満足げに頷いた愛が、当たり前のように隣に並ぶ。
二人は並んで歩き出した。
愛は機嫌よく話し続けた。
今日の練習のこと、速水のこと、どうでもいいような話まで。
その声は軽やかで、いつも通りだった。
比呂は相槌を打ちながら、海岸線へ続く道を進む。
その時だった。
——ドンッ。
腹の奥に響く轟音が、夜を裂いた。
顔を上げると、夜空に大輪の花が咲いていた。
赤、青、金。
闇を押し返すように、光が広がる。
「わぁ……!」
愛は息を呑み、砂浜へ駆け下りていく。
「おい、待てって!」
比呂も慌てて後を追った。
砂浜に降りると、愛は波打ち際に立っていた。
打ち上がる花火の光が、その頬を照らし、瞳の中で揺れている。
「……きれい」
小さくこぼれたその声は、誰に向けたものでもなかった。
「花火なんて、久しぶりに見た」
比呂は隣に立ちながら言う。
「毎年やってるだろ、ここで」
愛は答えない。
ただ、空を見上げ続けていた。
光に照らされているはずの横顔に、どこか影が差している。
やがて二人は砂の上に腰を下ろした。
波の音と、遠くで弾ける花火の音だけが、静かに重なる。
比呂は横目で愛を見ていた。
花火が上がるたび、消えるたび、
その表情が少しずつ、わずかに、悲しみに近づいていくのがわかる。
最後の花火が、夜空にほどけるように散った。
音が途切れ、静寂が戻る。
それでも愛は、しばらく空を見上げていた。
やがて、かすかな声で呟く。
「今日のこと……忘れない
⋯⋯⋯死んでも忘れないよ」
その言葉は、風にも届かないほど小さかった。
頬を、一筋の涙が伝う。
光の消えた砂浜へと落ちていく。
比呂は何も言わなかった。
ただ隣で、その涙の意味を探すように、静かに見つめていた。
波が寄せては返す。
その音だけが、二人のあいだの沈黙を、やさしく包み込んでいた。




