第五話
愛が振り返った瞬間、息が止まった。
そこに——
白いユニフォームを着た比呂が立っていた。
胸の番号。
袖のライン。
そして、あの日、廊下でくしゃくしゃに押しつけた、あのユニフォーム。
「……比呂?」
声が震えた。
監督が驚いたように眉を上げる。
「お前は?」
比呂は静かに答えた。
「帰宅部の、水嶋比呂です」
「帰宅部……?」
監督が呟いたその瞬間、愛が一歩前に出た。
差し出された一枚の紙。
しっかりと掴まれた入部届。
監督の目が丸くなる。
比呂は呆れたように愛を見た。
「……お前、勝手に出すなよ」
愛はいたずらっぽく笑った。
けれど次の瞬間、真剣な目で比呂を見つめた。
「任せて、大丈夫なの?」
比呂は短く息を吐いた。
グラウンドを見た。
マウンドを見た。
ほんの一瞬だけ、昔の自分と今の自分が重なった。
そして前を向いた。
「任せろ」
そのまま歩き出す。
白いユニフォームが夏の光の中を進んでいく。
あの頃より、ずっと大きくなった背中だった。
愛の胸の奥が熱くなった。
「……やっと、帰ってきた」
声にならなかった。
涙だけが、静かに落ちた。
マウンドに向かうと、ピッチャーが振り返った。
疲れ切った顔。
それでも、目だけはまだ消えていなかった。
「お前は?」
「帰宅部の、水嶋比呂だ」
ピッチャーの目が大きく開いた。
「……やっぱり、あの水嶋比呂なのか?」
比呂は手の中のボールを見つめた。
「ただの水嶋比呂だよ」
ピッチャーはふっと笑った。
疲れた顔のまま、それでも確かに笑って、比呂の肩を一度だけ叩いた。
「任せたぞ」
その背中が遠ざかっていく。
比呂は何も言わなかった。
マウンドに一人立つ。
土を踏む。
プレートを右足で確かめる。
グラウンドを見渡す。
外野の向こうにスタンドが揺れていた。
広いのか、狭いのか。
自分がどこに立っているのか。
わからなかった。
キャッチャーが駆け寄ってきた。
「サインはどうする?」
「そんなのねぇよ」
キャッチャーが目を丸くする。
比呂はミットを指差した。
「ミットを動かすな。どこに構えてもいい。ただ、絶対に動かすなよ」
キャッチャーは一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。
「……了解」
戻っていく背中を見送り、比呂は深く息を吸った。
肩慣らしに投げた一球。
音が、鳴った。
乾いた、鋭い音。
ミットが悲鳴のように震えた。
星華のベンチが静まり返り、次の瞬間ざわめいた。
「……速っ」「なんだあれ」「この学校にいたのか?」
一拍置いて、誰かが言った。
「あのくらいならどこにでもいる」
だが、その声はさっきより低かった。
最初のバッターが打席に入る。
三球。
一度もバットに当たらなかった。
戻っていくバッターに、次のバッターが鼻で笑う。
「だせーな」
三振したバッターが振り返った。
「……打席に立てばわかる」
静かな声だった。
次のバッターも、三球で終わった。
海南の攻撃になった。
比呂の打席。
相手ピッチャーが振りかぶる。
ストライクを取りにきた球が、真ん中へ甘く入った。
乾いた音が空を裂いた。
白球は一直線に伸び、あわやという場面でフェンスに弾かれた。
「くそっ」
比呂は舌打ちをこぼしながら、二塁へ向かった。
星華のベンチが一斉に立ち上がる。
「あいつ……水嶋じゃないのか」
「"消えた天才"の……」
「なんでこんな学校に……」
ざわめきが広がった。
八回裏。
星華の内野手がエラーをした。
判定はギリギリでセーフ。
「何やってんだよ!」
マウンドのピッチャーが怒鳴る。
その苛立ちのまま投げた球はコントロールを失い、フォアボール。
続くデッドボールで満塁になった。
打席へ向かう比呂を、ピッチャーが睨みつける。
振りかぶる。
狙い通りのストライクのはずが、球は真ん中へ甘く浮いた。
バチィンッ。
破裂音のような打球が、夜空へ吸い込まれていく。
満塁ホームラン。
星華の監督が立ち上がった。
「交代! ピッチャー交代!」
二番手がマウンドへ向かいながら、すれ違いざまに降板するピッチャーへ吐き捨てた。
「ざまぁ」
監督の顔色が変わった。
「お前はもう使わん。帰れ」
降板したピッチャーは肩をすくめ、校門の方へ歩いていった。
誰も引き止めなかった。
その後は静かだった。
二番手ピッチャーが立ち直り、海南の打者を打ち取る。
比呂も淡々とバッターを仕留めていく。
二アウト。
そのとき、星華ベンチの端で一人が立ち上がった。
「監督」
低い声。
「代打、速水瞬」
監督が振り返ると、速水がそこにいた。
「お前ら一軍は今日はフリーだろう」
速水は肩をすくめた。
「こんな面白い場面、見てるだけじゃもったいないでしょ」
そして、比呂を見たまま笑った。
「それに——あいつにノーヒットだったなんて、総監督には言えないでしょ」
監督は悔しそうに唇を噛み、短く言った。
「……行け」
速水はバットを担ぎ、ゆっくりとバッターボックスへ向かった。
比呂も、速水を見ていた。
二人の視線が交わった瞬間、グラウンドの空気が、音もなく変わった。
速水がバッターボックスに入り、構える前にひと振りだけ素振りをした。
ただの素振り——のはずだった。
だが空気が裂けた。
乾いた鋭音がグラウンドの温度を一瞬で変えた。
外野が反射的に一歩下がり、ベンチのざわめきが止まる。
比呂の背筋を、冷たい汗が一筋落ちた。
速水が構えた。
バットを立て、静かにこちらを見る。
それだけなのに、グラウンドの中心が彼に吸い寄せられていくようだった。
比呂の指先が冷え、足裏の感覚が遠のく。
——まずい。
覚悟を押し込んで、振りかぶった。
渾身の力で腕を振る。
快音。
打球は一直線に空へ伸び、柵のギリギリでファウルラインを割った。
「ファウル!」
審判の声が落ちた瞬間、比呂は息を吐いた。
膝がわずかに揺れた。
速水はバットを下ろし、独り言のように呟いた。
「……思ったほどじゃないな」
その一言が、刃のように胸へ刺さった。
比呂の呼吸が乱れる。
次の球は外れた。
その次も、その次も。
指先が言うことを聞かない。
速水の構えが、視線が、ただ立っているだけの佇まいが、巨大な圧となって比呂を押し潰していく。
スリーボール、ワンストライク。
気づけば比呂は、ベンチの愛を見ていた。
愛は比呂と目が合った瞬間、眉を吊り上げた。
「打たれたら許さないんだから!」
怒鳴り声だった。
祈りでも励ましでもない。
ただ真っ直ぐで、容赦がなかった。
比呂は——笑った。
自分でも驚くほど自然に、笑っていた。
胸の奥で、言葉にならない何かがほどけた。
肩の重さが抜けた。
指先に血が戻る。
足がプレートをしっかり踏んだ。
比呂は速水を見据えて、大きく振りかぶった。
指先で、何かが弾ける。
速水のバットが空を切り、ミットが鋭く鳴った。
星華のベンチが沸き、そして静まり返った。
「速水先輩が……空振り?」「初めて見た……」
ざわめきが広がる。
速水はバットを下ろし、笑った。
小さく、しかし確かに。
そして顔を上げ、比呂を見た。
「面白い」
静かな声。
次の瞬間、腹の底から叫んだ。
「さあ来い!」
比呂はその声を聞いて、愛の方を見た。
——目をつぶっていた。
両手を組み、唇を噛んで、祈っていた。
「見てねえのかよ……」
思わず笑いが漏れた。
前を向き、深く息を吸い、振りかぶる。
さっきより力が抜けていた。
余計なものが全部消えていた。
ただ腕を振ると、指先が弾けた。
音が違う。
球が真っ直ぐに伸び、重力を忘れたように加速しながら速水へ向かう。
速水のバットが振られた瞬間、金属音が空に弾けた。
打球は高く、高く、夏の空へ吸い込まれていく。
そのまま柵を越え、柵の向こうへ消えていった。
「ホームラン!」
スタンドが揺れた。
「くそっ!」
比呂は叫んだ。
速水はゆっくりとベースを回りながら笑っていた。
バットを握る手が痺れていた。
ホームを踏むたびに指先が震えた。
それでも笑っていた。
ホームを踏み、比呂を見た。
「……面白くなってきた」
低く、独り言のような声だった。
比呂はうつむいた。
ホームランの重さが、じわじわと体に沈んでいく。
「まだ終わってないよ!」
愛の声が、グラウンドに突き刺さった。
比呂は顔を上げた。
愛が立っていた。
泣きそうな顔で、それでも真っ直ぐこちらを見ていた。
比呂は次の打者を見た。
息を吸い、振りかぶる。
三球で、三振を奪った。
十一対四。
静寂が落ちた。
整列し、礼を交わし、星華の選手たちが引き上げていく。
誰もがさっきとは違う顔をしていた。
比呂はマウンドから歩き出した。
うつむいたまま、土を踏む音だけが響く。
愛はその場に立ち、何も言わなかった。
ゆっくりと、手を叩いた。
乾いた音が、静かなグラウンドに響いた。




