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君がいた奇跡  作者: あると


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第四話


神崎家のチャイムが鳴ったのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。

雨はまだ細かく降り続き、玄関灯の下で無数の線を描いていた。


ドアが開いた瞬間、母親は息を呑み、次の瞬間には叫んでいた。


「愛……! 愛っ!」


父親が廊下の奥から駆けてくる。

比呂の背中越しに娘の顔を見た途端、その表情が凍りついた。

二人がかりで愛を抱き取ると、まるで壊れ物を扱うように慎重に、廊下の奥へ消えていった。


比呂だけが、玄関に取り残された。


ずぶ濡れの制服から滴る水が、三和土に小さな池をつくっていく。

視線の置き場が分からず、ただ立ち尽くしていた。


しばらくして、父親が戻ってきた。


比呂は深く頭を下げた。

「すみません。僕が……無理をさせてしまいました」


父親はしばらく黙っていた。

その沈黙が、叱責よりも重く感じられた。


「君は」


静かに落ちてきた声に、比呂は顔を上げた。


父親はじっとこちらを見つめていた。

懐かしさと、確かめるような光が混ざった目だった。


「比呂君じゃないか」


比呂は言葉を失った。


「大きくなったな」


父親は微笑んだ。

その笑みには、喜びだけではない、複雑な影が差していた。


「君もびしょ濡れじゃないか。……さあ、上がりなさい。風呂で温まれ」


促されるまま脱衣所へ向かうと、几帳面に畳まれたタオルが積まれていた。


湯船に身を沈めた瞬間、全身がほどけた。

自分がどれほど冷えていたのか、ようやく理解した。

指先がじんじんと痛む。

雨の河原で何度も腕を振り続けた感覚が、お湯の中でゆっくりと形を取り戻していく。


――あの球の感触が、まだ指に残っていた。


風呂から上がると、父親のものらしいスウェットが置かれていた。袖が余る。

濡れた制服は、いつの間にか乾燥機にかけられていた。


リビングに入ると、湯気の立つお茶がテーブルに置かれていた。


比呂は腰を下ろし、もう一度頭を下げた。


「改めて……申し訳ありませんでした」


母親は静かに首を振った。


「どうせあの子が無茶を言ったんでしょ」

困ったような、でもどこか諦めたような笑みだった。

「ごめんなさいね、うちの子が」


「いえ。……俺が行かなければよかったんです」


行かなければよかった。

そう言いながら、その言葉が本心なのか自分でも分からなかった。


温かい湯呑みを両手で包む。

その温度が、胸の奥の冷えまで溶かしていくようだった。


父親が向かいに座り、静かに口を開いた。


「君は、もう野球はやらないのか」


「お父さん……」

母親が制するように小声を漏らした。


「いいんです」


比呂は湯呑みを見つめたまま言った。


「肩を壊してしまったので」


それだけで、喉が塞がった。


瞼の裏に、あの日の光景が浮かぶ。

マウンドから降ろされた瞬間の監督の冷たい目。

控え投手の、あの嘲るような笑み。

チームメイトたちが一斉に視線を逸らした午後の空気。


野球が消えた。

エースという肩書きが消えた。

期待が消えた。

自分を形作っていたものが、全部まとめて剥がれ落ちた。


残ったのは、ただの「怖さ」だけだった。


「そうか」


父親の声で、比呂は顔を上げた。


父親はそれ以上何も言わなかった。

責めもせず、慰めもせず、ただ静かに頷いた。


その静けさが、胸に深く刺さった。


母親が話題を変え、学校のこと、クラスのこと、愛の最近の様子を穏やかに語った。

比呂は相槌を打ちながら、知らない家のリビングなのに、どこか居場所のような温度を感じていた。


それが不思議で、少し怖かった。


乾燥機の音が止まった。


「そろそろ失礼します」


比呂は立ち上がり、制服に着替えて玄関へ向かった。


「送っていくよ」


父親が立ち上がる。


「傘があるので、大丈夫です」


「そうか」


父親は無理に引き留めず、玄関まで見送った。

比呂が靴を履くのを、黙って待っていた。


深く頭を下げ、外へ出ようとしたその時――


「比呂君」


背中に、静かな声が届いた。


振り返ると、玄関の灯りの下で父親が立っていた。

さっきとは違う表情だった。

何かを堪えながら、それでも伝えようとする人の顔だった。


「……愛のこと、ありがとう」


比呂は言葉を失った。


返すべき言葉が見つからず、ただ深く頭を下げた。


傘を開き、夜の雨へ踏み出す。

街灯が雨粒を光らせ、足音は濡れたアスファルトに吸い込まれていく。


玄関の灯りを背に感じながら、比呂は歩いた。

振り返らなかった。


翌日、愛は来なかった。

その次の日も来なかった。


比呂は、教室のドアが開くたびに顔を上げていた。

自分でも気づかないうちに、そうしていた。

愛の席は空のまま。

担任が欠席を読み上げるたび、比呂は窓の外へ視線を逃がした。


一週間が過ぎた。


その朝、ドアが開いた。


愛だった。


比呂は声をかけようとして、言葉が喉で止まった。

笑ってはいた。いつものように。

だが、その笑顔は薄紙のように白く、どこか輪郭が曖昧だった。


放課後、廊下で追いかけた。


「……大丈夫か」


「全然大丈夫だよ」


愛は振り返り、いつもの調子で笑った。

その軽さが、逆に不自然だった。


比呂は、それ以上踏み込めなかった。


その日から、愛は野球部に入れと言わなくなった。

ユニフォームを押しつけてくることも、河原に呼び出すこともなかった。

ただマネージャーとして練習に出て、選手たちに指示を出し、夕暮れになると静かに帰っていった。


比呂はそれを、いつもの場所から見ていた。


ある日の放課後、部室が騒がしかった。


愛が引き戸を開けると、選手たちが一枚の紙を囲んで歓声を上げていた。


「見ろよこれ!」「マジかよ!」「俺たち、認められたんだぞ!」


キャプテンが振り返った。


「神崎さん、聞いてくれよ。星華高校から練習試合の申し込みが来たんだ!」


愛の目が止まった。


星華高校。

今年の甲子園準優勝。

この地区の第一シード。

名前を知らない野球関係者はいない。


「この前のベスト十六のチームに善戦したから、向こうが声をかけてくれたんだ。俺たちのこと、ちゃんと見てくれてたんだよ!」


選手たちは興奮していた。

目が輝いていた。


愛は少しだけ笑い、その背中を押した。


「……頑張って」


その夜から、練習は真っ暗になるまで続いた。

グラウンドに照明はない。

それでも選手たちは、闇の中で素振りを続けた。


練習試合当日。

星華高校のバスがグラウンド前に止まった。


ドアが開き、選手たちが降りてきた。


全員、一年生だった。


「なんでこんなとこ来なきゃいけねーんだよ」


最初に降りた選手が、グラウンドを見渡して呟いた。

隠す気もない声だった。


「ボロくね」「草生えてんじゃん」「遠いし」


笑いながらグラウンドへ入っていく。

挨拶もない。

こちらのベンチを一瞥して、また笑った。


星華の監督が後ろから声をかけた。


「おい、挨拶ぐらいせんか」


選手の一人が振り返り、気の抜けた声で言った。


「ちわっす」


それだけだった。


愛はベンチの端で、その様子を見ていた。


――強豪校って、こんなものなの。

――なんで一年生しかいないの。


口には出さなかった。

だが胸の奥で、何かが固く結ばれていった。


星華の監督がこちらへ歩いてきた。


「うちも時間がないんで、ウォーミングアップなしでやりましょう。いいですか」


こちらの監督が頷く前に、もう踵を返していた。


グラウンドの外、校舎の陰に人影があった。


今日も来ていた。


速水瞬がその影に近づいた。

甲子園準優勝チームの四番。

この地区で“怪物”と呼ばれる男。


「お前、投げないのか」


人影――水嶋比呂は速水を見た。

それから視線をグラウンドへ戻した。


「俺は野球部じゃない」


速水はグラウンドを見渡した。

ベンチにいる愛の姿を見つけ、少し目を細めた。


「あいつ、こんな高校にいるのか」


そして、独り言のように呟いた。


「もったいないな。」


比呂は何も言わなかった。


試合が始まった。


一回の表。

星華の攻撃が終わらなかった。


打球が飛ぶたびに歓声が上がった。

だがそれは星華側からだけだった。


一点、二点、三点――

積み重なるたび、こちらのベンチは静まり返っていった。


アウトが取れなかった。


ようやく正面の打球を捌いて一つ目のアウトが取れた時、星華のベンチから笑い声が上がった。


「だっせー」「一個取るのにどんだけかかってんだよ」


マウンドの投手は肩で息をしていた。

顔が真っ青だった。

まだ一回。

まだ二アウトも取れていない。


スコアボードに数字が灯った。


10対0


愛はベンチの前に立っていた。


「……ひどい」


声にならない声で呟いた。


涙が、一粒こぼれた。

拭わなかった。


速水が比呂に声をかけようと横を向いた。


そこに、比呂の姿はなかった。


速水はグラウンドを見渡した。

校舎の陰を見た。

どこにもいなかった。


そして、視線をベンチへ向けた。


フェンスの扉が、静かに開いた。


ユニフォームを着た人間が、グラウンドへ歩いていた。


速水は目を細めた。


口の端が、わずかに上がった。

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