表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君がいた奇跡  作者: あると


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/12

第三話


翌日。

愛は一人で隣町の球場へ向かった。

薄曇りの空は低く、湿った風が頬を撫でた。スタンドに腰を下ろすと、愛の視線はずっとグラウンドの一点に吸い寄せられていた。

サードを守るあの選手が、今日も淀みのない動きで打球を捌いている。


試合が終わる。

引き上げてくる選手たちの流れの中で、愛は立ち上がった。


「おめでとう」


声をかけると、選手は振り返り、目を丸くした。


「神崎さん? なんで来てるんですか」


「近くまで来たので」


愛は柔らかく微笑んだ。

そして一拍置き、表情を少しだけ引き締めた。


「比呂のこと、少し聞いてもいいですか」


選手の顔に、わずかな陰が落ちた。


「前のチームで、何かあったんですか」


しばらく沈黙があった。

選手はグラウンドを振り返り、ゆっくりと口を開いた。


「まあ、よくある話だよ」


そう前置きしてから、淡々と続けた。


「肩に痛みがあったのに、黙って投げ続けてたんだ。チームのためにって。誰にも言わないでずっと、それで完全に壊れた」


風が吹き、砂が足元を流れた。


「投げられなくなったら、監督は手のひら返したみたいに冷たくなってさ。控えのピッチャーは“ざまあみろ”って喜んでた。あいつ、エースで期待されてた分、余計にきつかったと思う」


愛は黙って聞いていた。

選手の声は淡々としていたが、その奥にある悔しさは隠せていなかった。


「それで、いつの間にかチームからいなくなってた」


選手は少しだけ目を細めた。遠くを見るような目だった。


「俺、同じ病院に通ってるから知ってるんだけどさ。先生はもう大丈夫って言ってたよ。ずっと前に」


愛は何も言わなかった。


遠くから監督の声が飛んだ。

選手がはっとして走り出す。その途中で振り返り、片手を上げた。


「アイツによろしくな!」


人混みの中へ消えていった。


愛はしばらくその場に立ち尽くしていた。

グラウンドの向こうで、誰かがまだ笑っている。その声が、やけに遠かった。


チームのために投げ続けた。

壊れた。

捨てられた。

それでも怖くて、投げられなくなった。


愛は空を見上げた。

流れる雲が、重たく胸にのしかかった。


――バカ。


声には出さなかった。

怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でも判別できなかった。


翌日の昼休み。

比呂は教室の空気を読むようにして、素早く廊下へ出た。

昨日のことを引きずっていた。愛と顔を合わせたくなかった。ただ、それだけだった。


廊下に出た瞬間、足が止まった。


愛が仁王立ちで立っていた。

腕を組み、真っ直ぐこちらを見ていた。

まるで、ずっと前からそこに存在していたかのような立ち方だった。


比呂は反射的に踵を返した。


「待ちなさい」


廊下に響く声。

仕方なく振り返る。


「なんだよ」


「怪我、治ってるらしいわね」


昨日よりも静かな声だった。

低く、重く、逃げ場を塞ぐような声。


比呂の奥歯が軋んだ。視線が床に落ちる。


「あいつ、余計なことを」


「勝負しましょう」


愛は続けた。

一歩も引かない目だった。


「今日、河原のグラウンドで。私が空振りしたら、もう何も言わない。約束する」


「女に打てるわけ――」


言いかけて、止まった。

愛の目が、変わらなかった。

怒っているわけじゃない。ただ、真っ直ぐだった。

それが余計に、比呂には応えた。


愛はくるりと踵を返し、教室へ戻りながら肩越しに言った。


「待ってるからね」


「行かねえからな」


返事はなかった。

ドアが静かに閉まった。


比呂は廊下に一人残された。

自分の声が空気に溶けていくのを、ぼんやりと聞いていた。


放課後。

比呂は窓の外を見た。


空が変わっていた。

真っ黒な雨雲が地平線の端から端まで広がり、光を飲み込んでいた。

教室が薄暗くなる。


愛に声をかけようと振り返った。


席が空だった。


「…まさか」


呟きが漏れた。


荷物を掴み、教室を飛び出す。

校門を抜ける。

足が家とは反対の方向へ向いていた。

気づいた時には、もう走っていた。


河原に着いた瞬間、空が割れた。


堰を切ったように雨が落ちてきた。

一秒で視界が変わる。

地面が跳ね、川面が白く泡立つ。


それでも、いた。


傘もない。

制服のまま。

髪が頬に張り付き、全身ずぶ濡れで、

それでもバットを両手でしっかり握り、

バッターボックスに立っていた。


「お前、何やってるんだ!」


比呂が叫んだ。

雨音にかき消されそうな声だった。


愛は振り返らなかった。


ボールを一球、静かにこちらへ投げてきた。


「早く投げろ!」


雨の轟音の中で、その声だけが真っ直ぐに届いた。


比呂は雨の中に立ち尽くしていた。

手の中にはボール。

視界の先には、ずぶ濡れの少女がバットを構えて立っていた。


比呂は、ボールを握ったまま動けずにいた。

雨が肩を叩き、足元の泥が靴にまとわりつく。

バッターボックスの向こうで、ずぶ濡れの愛がバットを構えていた。

髪は頬に張り付き、制服は肌に貼りついている。

それでも――その目だけは、揺らぎなく真っ直ぐだった。


仕方ない。

本当に、仕方ない。


比呂はゆっくりとマウンドへ歩いた。

泥を踏むたびに足が沈む。

雨が目に入り、視界が滲む。

足場を確かめ、軽く振りかぶった。


力を抜いて、投げた。


快音が雨を裂いた。

打球が一直線に飛んでいく。


「ふざけるな!」


怒声が飛ぶ。


「本気でやらなきゃ意味がないだろ!」


「雨で滑っただけだ!」


比呂は叫び返し、泥を踏んで足場を固めた。


「どうなっても知らねえぞ!」


今度は本気で投げた。


また快音。

さっきより遠くへ、白い軌跡が消えていく。


比呂は呆然と立ち尽くした。

雨が顔を叩き、川の音が膨らんでいく。


「……何もんだよ」


掠れた声が漏れた。


「もっと本気で投げろ!」


「本気で投げてるんだよ!」


叫び返す。


それから、また投げた。

打たれた。

また投げた。

また打たれた。


何球目かわからない。

雨はさらに強くなり、泥が跳ね、足が沈む。

息が荒くなり、腕が重くなる。

指先の感覚が、少しずつ遠のいていく。


それでも投げた。

打たれた。

投げた。

打たれた。


怒りが消えた。

意地も消えた。

言い訳も消えた。


何も考えられなくなり、ただ腕を振っていた。

体だけが、勝手に動いていた。


指先に力が入らなくなった頃だった。


腕を振った。

力が抜けたまま、ただ振った。


その瞬間――

指先で、何かが弾けた。


ぴっ、と小さな音。


球が、変わった。


今まで投げたどの球でもない。

重力を置き去りにしたように伸び、真っ直ぐ、まだ加速しながら愛の元へ向かっていく。


愛がバットを振った。


空を切った。


雨音だけが残った。


愛はしばらくバッターボックスに立ち尽くしていた。

バットを下ろし、空を仰ぐ。

雨が顔を叩いても、瞬きひとつしない。


唇が動いた。


「……やっと、戻ってきた」


雨に溶けるほどの声だった。


そして、糸が切れたように崩れ落ちた。


「おい!」


比呂が走った。

泥を蹴り、転びそうになりながら駆け寄る。


愛は膝をつき、バットを握ったままうつむいていた。

肩が小さく上下している。


「おい、しっかりしろ」


しゃがみ込み、肩を掴む。

愛がゆっくりと顔を上げた。


濡れた睫毛の奥で、目が霞んでいた。


「……ずっと、一緒にいられるとは限らないんだから」


それだけ言って、目を閉じた。


「おい!」


額に手を当てた瞬間、比呂は息を飲んだ。


燃えるように熱かった。


こんな体で、雨の中に立っていたのか。

あの球を、何度も何度も打ち返していたのか。


「まじかよ……」


比呂はバッグを引き寄せ、生徒手帳を取り出した。

濡れた指でページをめくる。

住所が目に飛び込んだ。


頭に叩き込み、バッグを肩にかける。


愛の体を抱き起こす。


軽かった。


こんなに軽い体で、あの雨の中に一人で立っていたのか。

あの球を、何度も何度も打ち返していたのか。


背中に乗せ、立ち上がり走り出した。


河原の砂利を踏む音と、雨音だけが響いた。

背中の愛はもう動かない。

熱だけが、服越しに伝わってくる。


比呂はただ走った。

息が上がり、足が重くなる。

それでも緩める気にはなれなかった。


指先には、まだあの感覚が残っていた。


ぴっ――

あの音が、雨音の中でまだ鳴り続けている気がした。


取り戻したものの重さと、背中の体の軽さが、同時に胸に刺さっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ