第三話
翌日。
愛は一人で隣町の球場へ向かった。
薄曇りの空は低く、湿った風が頬を撫でた。スタンドに腰を下ろすと、愛の視線はずっとグラウンドの一点に吸い寄せられていた。
サードを守るあの選手が、今日も淀みのない動きで打球を捌いている。
試合が終わる。
引き上げてくる選手たちの流れの中で、愛は立ち上がった。
「おめでとう」
声をかけると、選手は振り返り、目を丸くした。
「神崎さん? なんで来てるんですか」
「近くまで来たので」
愛は柔らかく微笑んだ。
そして一拍置き、表情を少しだけ引き締めた。
「比呂のこと、少し聞いてもいいですか」
選手の顔に、わずかな陰が落ちた。
「前のチームで、何かあったんですか」
しばらく沈黙があった。
選手はグラウンドを振り返り、ゆっくりと口を開いた。
「まあ、よくある話だよ」
そう前置きしてから、淡々と続けた。
「肩に痛みがあったのに、黙って投げ続けてたんだ。チームのためにって。誰にも言わないでずっと、それで完全に壊れた」
風が吹き、砂が足元を流れた。
「投げられなくなったら、監督は手のひら返したみたいに冷たくなってさ。控えのピッチャーは“ざまあみろ”って喜んでた。あいつ、エースで期待されてた分、余計にきつかったと思う」
愛は黙って聞いていた。
選手の声は淡々としていたが、その奥にある悔しさは隠せていなかった。
「それで、いつの間にかチームからいなくなってた」
選手は少しだけ目を細めた。遠くを見るような目だった。
「俺、同じ病院に通ってるから知ってるんだけどさ。先生はもう大丈夫って言ってたよ。ずっと前に」
愛は何も言わなかった。
遠くから監督の声が飛んだ。
選手がはっとして走り出す。その途中で振り返り、片手を上げた。
「アイツによろしくな!」
人混みの中へ消えていった。
愛はしばらくその場に立ち尽くしていた。
グラウンドの向こうで、誰かがまだ笑っている。その声が、やけに遠かった。
チームのために投げ続けた。
壊れた。
捨てられた。
それでも怖くて、投げられなくなった。
愛は空を見上げた。
流れる雲が、重たく胸にのしかかった。
――バカ。
声には出さなかった。
怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でも判別できなかった。
翌日の昼休み。
比呂は教室の空気を読むようにして、素早く廊下へ出た。
昨日のことを引きずっていた。愛と顔を合わせたくなかった。ただ、それだけだった。
廊下に出た瞬間、足が止まった。
愛が仁王立ちで立っていた。
腕を組み、真っ直ぐこちらを見ていた。
まるで、ずっと前からそこに存在していたかのような立ち方だった。
比呂は反射的に踵を返した。
「待ちなさい」
廊下に響く声。
仕方なく振り返る。
「なんだよ」
「怪我、治ってるらしいわね」
昨日よりも静かな声だった。
低く、重く、逃げ場を塞ぐような声。
比呂の奥歯が軋んだ。視線が床に落ちる。
「あいつ、余計なことを」
「勝負しましょう」
愛は続けた。
一歩も引かない目だった。
「今日、河原のグラウンドで。私が空振りしたら、もう何も言わない。約束する」
「女に打てるわけ――」
言いかけて、止まった。
愛の目が、変わらなかった。
怒っているわけじゃない。ただ、真っ直ぐだった。
それが余計に、比呂には応えた。
愛はくるりと踵を返し、教室へ戻りながら肩越しに言った。
「待ってるからね」
「行かねえからな」
返事はなかった。
ドアが静かに閉まった。
比呂は廊下に一人残された。
自分の声が空気に溶けていくのを、ぼんやりと聞いていた。
放課後。
比呂は窓の外を見た。
空が変わっていた。
真っ黒な雨雲が地平線の端から端まで広がり、光を飲み込んでいた。
教室が薄暗くなる。
愛に声をかけようと振り返った。
席が空だった。
「…まさか」
呟きが漏れた。
荷物を掴み、教室を飛び出す。
校門を抜ける。
足が家とは反対の方向へ向いていた。
気づいた時には、もう走っていた。
河原に着いた瞬間、空が割れた。
堰を切ったように雨が落ちてきた。
一秒で視界が変わる。
地面が跳ね、川面が白く泡立つ。
それでも、いた。
傘もない。
制服のまま。
髪が頬に張り付き、全身ずぶ濡れで、
それでもバットを両手でしっかり握り、
バッターボックスに立っていた。
「お前、何やってるんだ!」
比呂が叫んだ。
雨音にかき消されそうな声だった。
愛は振り返らなかった。
ボールを一球、静かにこちらへ投げてきた。
「早く投げろ!」
雨の轟音の中で、その声だけが真っ直ぐに届いた。
比呂は雨の中に立ち尽くしていた。
手の中にはボール。
視界の先には、ずぶ濡れの少女がバットを構えて立っていた。
比呂は、ボールを握ったまま動けずにいた。
雨が肩を叩き、足元の泥が靴にまとわりつく。
バッターボックスの向こうで、ずぶ濡れの愛がバットを構えていた。
髪は頬に張り付き、制服は肌に貼りついている。
それでも――その目だけは、揺らぎなく真っ直ぐだった。
仕方ない。
本当に、仕方ない。
比呂はゆっくりとマウンドへ歩いた。
泥を踏むたびに足が沈む。
雨が目に入り、視界が滲む。
足場を確かめ、軽く振りかぶった。
力を抜いて、投げた。
快音が雨を裂いた。
打球が一直線に飛んでいく。
「ふざけるな!」
怒声が飛ぶ。
「本気でやらなきゃ意味がないだろ!」
「雨で滑っただけだ!」
比呂は叫び返し、泥を踏んで足場を固めた。
「どうなっても知らねえぞ!」
今度は本気で投げた。
また快音。
さっきより遠くへ、白い軌跡が消えていく。
比呂は呆然と立ち尽くした。
雨が顔を叩き、川の音が膨らんでいく。
「……何もんだよ」
掠れた声が漏れた。
「もっと本気で投げろ!」
「本気で投げてるんだよ!」
叫び返す。
それから、また投げた。
打たれた。
また投げた。
また打たれた。
何球目かわからない。
雨はさらに強くなり、泥が跳ね、足が沈む。
息が荒くなり、腕が重くなる。
指先の感覚が、少しずつ遠のいていく。
それでも投げた。
打たれた。
投げた。
打たれた。
怒りが消えた。
意地も消えた。
言い訳も消えた。
何も考えられなくなり、ただ腕を振っていた。
体だけが、勝手に動いていた。
指先に力が入らなくなった頃だった。
腕を振った。
力が抜けたまま、ただ振った。
その瞬間――
指先で、何かが弾けた。
ぴっ、と小さな音。
球が、変わった。
今まで投げたどの球でもない。
重力を置き去りにしたように伸び、真っ直ぐ、まだ加速しながら愛の元へ向かっていく。
愛がバットを振った。
空を切った。
雨音だけが残った。
愛はしばらくバッターボックスに立ち尽くしていた。
バットを下ろし、空を仰ぐ。
雨が顔を叩いても、瞬きひとつしない。
唇が動いた。
「……やっと、戻ってきた」
雨に溶けるほどの声だった。
そして、糸が切れたように崩れ落ちた。
「おい!」
比呂が走った。
泥を蹴り、転びそうになりながら駆け寄る。
愛は膝をつき、バットを握ったままうつむいていた。
肩が小さく上下している。
「おい、しっかりしろ」
しゃがみ込み、肩を掴む。
愛がゆっくりと顔を上げた。
濡れた睫毛の奥で、目が霞んでいた。
「……ずっと、一緒にいられるとは限らないんだから」
それだけ言って、目を閉じた。
「おい!」
額に手を当てた瞬間、比呂は息を飲んだ。
燃えるように熱かった。
こんな体で、雨の中に立っていたのか。
あの球を、何度も何度も打ち返していたのか。
「まじかよ……」
比呂はバッグを引き寄せ、生徒手帳を取り出した。
濡れた指でページをめくる。
住所が目に飛び込んだ。
頭に叩き込み、バッグを肩にかける。
愛の体を抱き起こす。
軽かった。
こんなに軽い体で、あの雨の中に一人で立っていたのか。
あの球を、何度も何度も打ち返していたのか。
背中に乗せ、立ち上がり走り出した。
河原の砂利を踏む音と、雨音だけが響いた。
背中の愛はもう動かない。
熱だけが、服越しに伝わってくる。
比呂はただ走った。
息が上がり、足が重くなる。
それでも緩める気にはなれなかった。
指先には、まだあの感覚が残っていた。
ぴっ――
あの音が、雨音の中でまだ鳴り続けている気がした。
取り戻したものの重さと、背中の体の軽さが、同時に胸に刺さっていた。




