第二話
六月になった。
梅雨の晴れ間が続くその月、神崎愛がチームにもたらした変化は、数字の上に鮮やかに刻まれていた。
春には勝つ気配すらなかった弱小校が、練習試合で勝ち星を拾い始めた。
声が変わり、表情が変わり、負け慣れた顔が“勝つ顔”を覚えていく。
その日も練習試合が終わり、選手たちが笑いながら引き上げていく中、愛はグラウンドの隅へ歩いた。
校舎の陰に、いつもの影があった。
「あら」
愛は口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「これはこれは、忙しい帰宅部の水嶋比呂くんじゃないですか」
一拍置いて、首を傾ける。
「野球、やりたくなった?」
「うるさい」
比呂は壁から背を離した。
ズボンをはたく仕草が、どこか芝居がかっていた。
「たまたま見てただけだよ」
「そうですか」
「そうだよ」
それだけ言って歩き出す。
愛は追わなかった。ただ、その背中に向けてゆっくりと手を振った。
「待ってるから」
比呂は振り返らなかった。
だが、その足が一瞬だけ遅くなったのを、愛は確かに見ていた。
地区大会の予選が近づいた、ある放課後。
廊下に出た比呂は、足を止めた。
壁に背を預け、腕を組んで立つ人物がいた。
待ち伏せしていることを隠す気もない立ち方だった。
「予選、出てよ」
挨拶もなく、愛はそう言った。
手には畳んだユニフォーム。
白地に紺のライン。洗い立ての布の匂いが、廊下の空気に混ざる。
「要らない」
比呂は受け取らなかった。
「それに——」
言葉を選ぶように、短く息を吸う。
「頑張ってる奴からレギュラーは奪えない」
愛はすぐには返さなかった。
ユニフォームを抱えたまま、比呂をまっすぐに見つめる。
「なんで投げないのよ?」
責めるでもなく、ただ知りたいという目だった。
その無垢さが、比呂にはいちばん堪えた。
右肩に手を当てる。
「壊してるんだよ」
低く、短い声だった。
それ以上は何も言わなかった。
愛の表情がわずかに翳る。
視線が床に落ちる。
「……ごめんなさい」
沈黙が廊下に広がった。
窓の外では、風に舞った赤土が陽光にきらめいていた。
やがて愛は顔を上げた。
何かを思い出したような、あるいは決めたような目をしていた。
「じゃあ、バッターとして——」
「投げれなきゃ意味ない」
比呂は遮った。
反射的に、喉が勝手に動いた。
自分でも驚くほど早く、強く。
廊下が静まり返る。
愛は何も言わなかった。
比呂も何も言わなかった。
どちらも動けなかった。
次の瞬間、愛はユニフォームを比呂の胸へそっと押しつけた。
渡すというより、置いていくような仕草だった。
手を離しても比呂が落とさないことを、最初から知っているかのように。
「待ってるから」
それだけ言い残し、愛はグラウンドへ向かった。
振り返らなかった。
比呂は廊下に一人残された。
手の中にユニフォームがあった。
落とせなかった。
落とそうとも、しなかった。
窓の外、グラウンドへ歩いていく愛の後ろ姿が見えた。
その足取りには迷いがなかった。
予選当日。
スタンドのどこを探しても、比呂の姿はなかった。
愛は球場入口で一度だけ振り返った。
そこにいないことを確認すると、小さく「もぉー」と息を漏らし、すぐに前を向いた。
気持ちを切り替えるのに、三秒もかからなかった。
「行くよ!」
張りのある声がベンチに届き、選手たちが一斉に顔を上げた。
試合は終始、愛の読みどおりに進んだ。
序盤から主導権を握り、危なげなく押し切る。
終わってみれば快勝。公式戦初勝利。
ベンチが爆ぜた。
抱き合う者、跳びはねる者、涙をこらえきれない者。
その光景を、愛はしばらく微笑んで見守っていた。
そして、パンパンと手を叩いた。
「まだこれからだよ!」
その一言で、浮かれた空気がすっと引き締まる。
次の相手は毎年ベスト十六に名を連ねるシード校。
本来なら勝負にすらならないはずだった。
だが、試合は予想を裏切った。
一点取られれば一点返す。
押されながらも食らいつき、決して折れない。
スタンドがざわめき、相手ベンチの表情が険しくなる。
それでも最後の一点は届かなかった。
サイレンが鳴り、試合終了。
呆然と立ち尽くしていた選手たちは、やがて互いの顔を見て気づいた。
「俺たち、やるじゃないか」
「強豪相手にここまで…」
「夏は絶対に勝てる」
負けたはずなのに、誰一人として俯いていなかった。
その輪の外で、愛は静かにグラウンドを見つめていた。
「神崎愛さん、ですよね」
声をかけてきたのは、相手チームのサードを守っていた選手だった。
「あなたは?」
「水嶋比呂の元チームメイトです」
男はスタンドの一角を指した。
人混みの中、腕を組んでグラウンドを見下ろす影があった。
比呂だった。
「あいつ、まだ気づいてないんですか。あなたがあの“神崎愛”だって」
愛はしばらく比呂を見つめた。
何も知らない顔で、ただ試合を眺めている。
あの頃から変わらない横顔だった。
「まったく…」
呆れたように言いながら首を振る。
「なんであいつ、投げないんですか」
その問いに、愛の表情がわずかに揺れた。
「肩を壊してるって言ってる」
男は一拍置き、ふっと笑った。
「まだそんなこと言ってるんですか、あいつ」
「どういうこと?」
「医者からはとっくに完治って言われてますよ。ずっと前に」
それは、あまりにもあっさりした口調だった。
「ただの臆病者なんです。じゃあ、頑張ってください」
そう言い残し、男は去っていった。
愛は再びスタンドの比呂を見た。
比呂はまだそこにいた。
何も知らない顔で、夕陽に染まるグラウンドを見つめていた。
愛の目が細くなった。
帰り道。
校門を出たところで、比呂は足を止めた。
愛が腕を組んで立っていた。
まるで、ずっとそこにいたかのように。
「なんだよ」
「肩、治ってるんだってね」
低く、抑えた声。
怒りを隠す気はなかった。
比呂の表情が固まる。
一瞬だけ、心の奥が揺れた。
だがすぐに押し込め、目を逸らした。
「お前には関係ないだろ」
「一緒に野球やろうよ」
「しつこい」
比呂は歩き出し、愛の横を通り過ぎた。
「もういいんだよ!」
声が出た。
自分でも驚くほど大きな声だった。
そのまま走り出す。
振り返らず、夕暮れの路地に足音だけが響いていく。
愛はその場に立ち尽くし、遠ざかる背中を見送った。
胸の奥にはまだ怒りが残っていた。
だが、それよりも少しだけ大きな感情が混ざっていた。




