表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君がいた奇跡  作者: あると


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/6

第一話


天を見上げた。

白球が高く、夏の空へ消えていく。

スタンドが揺れた。仲間が走ってくる声がする。でも俺の足は動かなかった。

ゆっくりとベースを踏みながら、ホームに向かう。

ありがとう。

声に出したつもりはなかった。でも唇が勝手に動いていた。

涙が止まらなかった。


――去年の春

春というのは不思議な季節だと、水嶋比呂はぼんやりと思った。

去年と同じ教室、同じ席、同じ窓の外。なのに何かが違う気がして、でもその何かが何なのかわからない。そういう落ち着かなさが、春にはある。

窓の外ではグラウンドの桜が風に揺れていた。野球部の連中が朝練を終えて引き上げていくのが見える。比呂は特に見るつもりもなく、ただ視線を投げていた。

ふわりと、桜の花びらが一枚窓から舞い込んできた。

思わず目で追いかける。花びらはゆっくりと弧を描いて、扉の方へ流れていった。

その瞬間、ガラッと扉が開いた。

担任が入ってくる。その後ろに、一人の少女が立っていた。

教室がざわついた。男子だけじゃない。女子も含めて、クラス全体の空気が一瞬で変わった。それだけの存在感があった。

少女は教室を見渡して、静かに口を開いた。

「神崎愛です。趣味は野球です。よろしくお願いします」

よく通る、はっきりとした声だった。

比呂は思わず少女を見た。趣味は野球、という一言が引っかかった。この学校で野球と言えば、男子の話だ。女子が当たり前のように言う言葉じゃない。

「空いてる席は…水嶋の隣だな。そこに座りなさい」

少女は教室を見渡して比呂を見つけると、ふわりと微笑んだ。迷いのない足取りで歩いてきて、隣の椅子を引いて座る。そして当たり前のように、こちらを向いた。

「水嶋比呂くん、よろしくね」

「…おう」

比呂は目を逸らした。

一拍おいて、気づく。

担任はまだ比呂の名前を呼んでいない。出席番号順の自己紹介も、まだ始まっていない。

なんで名前を知っているんだ、と聞こうとした瞬間。

「そこ、うるさい」

担任に睨まれて黙った。

隣で、くすっと小さく笑う声がした。

ホームルームが終わった瞬間、愛の周りには人だかりができた。

比呂はその様子を横目で見ながら、静かにカバンを掴んだ。今日はもう帰ろう。なんとなくそう思った。

「行きましょう」

振り返ると、愛が当然のように隣に立っていた。人だかりはいつの間にか消えていた。

「…どこに」

「野球部」

「なんでだよ」

愛は小首を傾けた。本当に、心の底から不思議そうな顔で。

「消えた天才って呼ばれてたんでしょ」

静かな声だった。でもその言葉は、教室の喧騒をすり抜けて真っ直ぐに届いた。

「伸びる豪速球と、消えるスプリット。天才ピッチャー水嶋比呂くん、だよね」

一瞬、胸の奥が痛んだ。

「人違い」

「まあいいわ」

愛はあっさりと流した。それ以上追いかけてこなかった。ただ困ったように、少しだけ笑って言う。

「私、来たばっかで野球部の場所知らないんだけど」

「担任に聞けばいいだろ」

「案内して」

それだけ言って、愛は比呂の手を掴んだ。

返事を待たなかった。当たり前のことをするみたいに、ただ引っ張った。

比呂は引きずられるように廊下へ出た。

窓の外に桜が見えた。さっき舞い込んできたのと同じ花びらが、今度はグラウンドへ向かって流れていく。

なんとなく、という言葉しか出てこなかった。

なんとなく、この春は去年までと違う気がした。


グラウンドへ向かう道すがら、比呂は一言も発さなかった。

春の風が制服の裾を揺らす。

「なんで俺がこんなことをしてるんだ」——心の中で何度も呟く。

案内しろと言われたから来ただけだ。それだけだ。

そう言い聞かせながらも、足は止まらなかった。


グラウンドに出ると、午後の日差しが赤土を照らしていた。

白いユニフォームが光を反射し、金属バットが空を裂く音が響く。

その瞬間、比呂の足がわずかに止まった。

懐かしい匂い。

胸の奥で何かが微かに軋んだ。

「何でもない」——そう思い込むように歩き出す。


愛は迷いなく監督のもとへ進み、背筋を伸ばして深々と頭を下げた。

「マネージャー志望です。よろしくお願いします」


監督が目を瞬かせ、隣に立つ比呂を見た。

「こいつは?」


「付き添いの帰宅部、水嶋比呂くんです」


その名が響いた瞬間、グラウンドの空気が変わった。

静寂。

そして、ざわめき。


「水嶋比呂……?」

誰かが呟く。

それが波紋のように広がっていく。

「あの水嶋比呂か?」「なんでこんな高校に」「伸びる豪速球の」「消えた天才じゃないか」


比呂は黙って立っていた。

視線が刺さる。

知っている視線だった。

中学の頃から何度も浴びてきた——期待と好奇、そして品定めの目。


愛がさらりと言った。

「人違いみたいです。同姓同名で」


「……そうか」「まあ、あいつがここにいるわけないよな」「だよな」

ざわめきは潮が引くように消えた。


比呂は何も言わなかった。

愛の横顔を一瞬だけ見た。

彼女は監督の方を向いたまま、何事もなかったように微笑んでいた。


「それじゃ」

比呂は踵を返した。


「あなたは入らないの?」

背中に愛の声が届く。

振り返らずに答えた。

「忙しいんだよ」


「ふうん」

それだけだった。


グラウンドを離れながら、比呂は思った。

これで終わりだ。案内は済んだ。もう関係ない。

そう思いながら、なぜか足が遅くなった。


——それから数日が経った。


愛はマネージャーとして野球部に溶け込んでいった。

いや、溶け込むというより、気づけば中心にいた。

ノックの球拾い、スコアの記録、練習メニューの管理。

黙々とこなしながら、その目は常にグラウンドを見ていた。


ある日の練習中。

外野手の一人がフライを三度落とした。

俯いて悔しそうにしているところへ、愛が歩み寄る。


「スタートが遅れてる」


「え?」


「打球音を聞いてから動いてる。音より先に、バットの角度を見て」


選手は半信半疑のまま次の打球へ向かった。

バットが振られる瞬間、体が動く。

一歩、二歩。

フライは胸に収まった。


「……あれ」


愛はもう次の選手のもとへ歩いていた。


それが毎日続いた。

一人ひとりに、一言か二言。

押しつけがましくなく、しかし的確に。

言われた選手は翌日には変わっていた。

チームが、少しずつ変わっていった。


キャプテンがある日、ぼそりと言った。

「こんな弱小校のマネージャーなんてよく志望したな。変わってるよ、お前」


愛は笑った。

「野球が好きなんです」


少し間を置いて、当たり前のように続けた。

「もう少ししたら、この学校も有名になりますよ」


キャプテンは言葉を失った。

冗談なのか本気なのか、その笑顔からは読み取れなかった。


校舎の陰に、人影があった。

壁にもたれて腕を組み、グラウンドをじっと見つめている。

夕陽が赤土を染める。

その光の中で、水嶋比呂は立っていた。

自分でも気づかないまま、視線はボールの軌道を追っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ