第一話
天を見上げた。
白球が高く、夏の空へ消えていく。
スタンドが揺れた。仲間が走ってくる声がする。でも俺の足は動かなかった。
ゆっくりとベースを踏みながら、ホームに向かう。
ありがとう。
声に出したつもりはなかった。でも唇が勝手に動いていた。
涙が止まらなかった。
――去年の春
春というのは不思議な季節だと、水嶋比呂はぼんやりと思った。
去年と同じ教室、同じ席、同じ窓の外。なのに何かが違う気がして、でもその何かが何なのかわからない。そういう落ち着かなさが、春にはある。
窓の外ではグラウンドの桜が風に揺れていた。野球部の連中が朝練を終えて引き上げていくのが見える。比呂は特に見るつもりもなく、ただ視線を投げていた。
ふわりと、桜の花びらが一枚窓から舞い込んできた。
思わず目で追いかける。花びらはゆっくりと弧を描いて、扉の方へ流れていった。
その瞬間、ガラッと扉が開いた。
担任が入ってくる。その後ろに、一人の少女が立っていた。
教室がざわついた。男子だけじゃない。女子も含めて、クラス全体の空気が一瞬で変わった。それだけの存在感があった。
少女は教室を見渡して、静かに口を開いた。
「神崎愛です。趣味は野球です。よろしくお願いします」
よく通る、はっきりとした声だった。
比呂は思わず少女を見た。趣味は野球、という一言が引っかかった。この学校で野球と言えば、男子の話だ。女子が当たり前のように言う言葉じゃない。
「空いてる席は…水嶋の隣だな。そこに座りなさい」
少女は教室を見渡して比呂を見つけると、ふわりと微笑んだ。迷いのない足取りで歩いてきて、隣の椅子を引いて座る。そして当たり前のように、こちらを向いた。
「水嶋比呂くん、よろしくね」
「…おう」
比呂は目を逸らした。
一拍おいて、気づく。
担任はまだ比呂の名前を呼んでいない。出席番号順の自己紹介も、まだ始まっていない。
なんで名前を知っているんだ、と聞こうとした瞬間。
「そこ、うるさい」
担任に睨まれて黙った。
隣で、くすっと小さく笑う声がした。
ホームルームが終わった瞬間、愛の周りには人だかりができた。
比呂はその様子を横目で見ながら、静かにカバンを掴んだ。今日はもう帰ろう。なんとなくそう思った。
「行きましょう」
振り返ると、愛が当然のように隣に立っていた。人だかりはいつの間にか消えていた。
「…どこに」
「野球部」
「なんでだよ」
愛は小首を傾けた。本当に、心の底から不思議そうな顔で。
「消えた天才って呼ばれてたんでしょ」
静かな声だった。でもその言葉は、教室の喧騒をすり抜けて真っ直ぐに届いた。
「伸びる豪速球と、消えるスプリット。天才ピッチャー水嶋比呂くん、だよね」
一瞬、胸の奥が痛んだ。
「人違い」
「まあいいわ」
愛はあっさりと流した。それ以上追いかけてこなかった。ただ困ったように、少しだけ笑って言う。
「私、来たばっかで野球部の場所知らないんだけど」
「担任に聞けばいいだろ」
「案内して」
それだけ言って、愛は比呂の手を掴んだ。
返事を待たなかった。当たり前のことをするみたいに、ただ引っ張った。
比呂は引きずられるように廊下へ出た。
窓の外に桜が見えた。さっき舞い込んできたのと同じ花びらが、今度はグラウンドへ向かって流れていく。
なんとなく、という言葉しか出てこなかった。
なんとなく、この春は去年までと違う気がした。
グラウンドへ向かう道すがら、比呂は一言も発さなかった。
春の風が制服の裾を揺らす。
「なんで俺がこんなことをしてるんだ」——心の中で何度も呟く。
案内しろと言われたから来ただけだ。それだけだ。
そう言い聞かせながらも、足は止まらなかった。
グラウンドに出ると、午後の日差しが赤土を照らしていた。
白いユニフォームが光を反射し、金属バットが空を裂く音が響く。
その瞬間、比呂の足がわずかに止まった。
懐かしい匂い。
胸の奥で何かが微かに軋んだ。
「何でもない」——そう思い込むように歩き出す。
愛は迷いなく監督のもとへ進み、背筋を伸ばして深々と頭を下げた。
「マネージャー志望です。よろしくお願いします」
監督が目を瞬かせ、隣に立つ比呂を見た。
「こいつは?」
「付き添いの帰宅部、水嶋比呂くんです」
その名が響いた瞬間、グラウンドの空気が変わった。
静寂。
そして、ざわめき。
「水嶋比呂……?」
誰かが呟く。
それが波紋のように広がっていく。
「あの水嶋比呂か?」「なんでこんな高校に」「伸びる豪速球の」「消えた天才じゃないか」
比呂は黙って立っていた。
視線が刺さる。
知っている視線だった。
中学の頃から何度も浴びてきた——期待と好奇、そして品定めの目。
愛がさらりと言った。
「人違いみたいです。同姓同名で」
「……そうか」「まあ、あいつがここにいるわけないよな」「だよな」
ざわめきは潮が引くように消えた。
比呂は何も言わなかった。
愛の横顔を一瞬だけ見た。
彼女は監督の方を向いたまま、何事もなかったように微笑んでいた。
「それじゃ」
比呂は踵を返した。
「あなたは入らないの?」
背中に愛の声が届く。
振り返らずに答えた。
「忙しいんだよ」
「ふうん」
それだけだった。
グラウンドを離れながら、比呂は思った。
これで終わりだ。案内は済んだ。もう関係ない。
そう思いながら、なぜか足が遅くなった。
——それから数日が経った。
愛はマネージャーとして野球部に溶け込んでいった。
いや、溶け込むというより、気づけば中心にいた。
ノックの球拾い、スコアの記録、練習メニューの管理。
黙々とこなしながら、その目は常にグラウンドを見ていた。
ある日の練習中。
外野手の一人がフライを三度落とした。
俯いて悔しそうにしているところへ、愛が歩み寄る。
「スタートが遅れてる」
「え?」
「打球音を聞いてから動いてる。音より先に、バットの角度を見て」
選手は半信半疑のまま次の打球へ向かった。
バットが振られる瞬間、体が動く。
一歩、二歩。
フライは胸に収まった。
「……あれ」
愛はもう次の選手のもとへ歩いていた。
それが毎日続いた。
一人ひとりに、一言か二言。
押しつけがましくなく、しかし的確に。
言われた選手は翌日には変わっていた。
チームが、少しずつ変わっていった。
キャプテンがある日、ぼそりと言った。
「こんな弱小校のマネージャーなんてよく志望したな。変わってるよ、お前」
愛は笑った。
「野球が好きなんです」
少し間を置いて、当たり前のように続けた。
「もう少ししたら、この学校も有名になりますよ」
キャプテンは言葉を失った。
冗談なのか本気なのか、その笑顔からは読み取れなかった。
校舎の陰に、人影があった。
壁にもたれて腕を組み、グラウンドをじっと見つめている。
夕陽が赤土を染める。
その光の中で、水嶋比呂は立っていた。
自分でも気づかないまま、視線はボールの軌道を追っていた。




