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君がいた奇跡  作者: あると


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18/22

第十八話


比呂が球場へ戻ったとき、スコアボードには無情にも、1対3の数字が灯っていた。

六回表、なおも相手の攻撃は続いている。

ベンチへ入ると、監督が振り返った。

「……比呂。大丈夫なのか?」

比呂は深く頭を下げた。

「すみません……投げさせてください」

その声には、迷いがなかった。

監督は一瞬だけ黙り込み、それから比呂の目を見て、静かにうなずく。

「……行け」

交代が告げられ、比呂はマウンドへ向かった。

降板する青木が、悔しそうに笑う。

「ごめん……守れなかった。神崎さんは……大丈夫なのか?」

比呂は口元だけをわずかに緩めた。

「あいつは大丈夫だよ。なんせ……“甲子園に連れてけ”って病室から追い出されたんだから」

青木は思わず吹き出した。

「……神崎さんらしいな。頼んだぞ」

ボールを受け取った比呂は、右肩にそっと意識を向ける。

そして、誰にも聞こえない声で囁いた。

「……頼むぞ」

そのころ、病室のテレビには、マウンドに立つ比呂の姿が映っていた。

画面を見つめる愛は、かすかに微笑む。

六回表、二アウト三塁。

比呂が振りかぶる。

一球目。

144キロのストレート。

鋭く伸びた球が、空を切らせた。

「ストライク!」

二球目。

140キロのストレート。

打者はかすかに当てるが、打球は三塁線の外へ逃げ、ファウルとなる。

「噂ほどじゃねぇな」

打者が鼻で笑った。

三球目。

135キロのスプリット。

次の瞬間、打者のバットは空を斬る。

「……消えた……?」

驚愕する打者をよそに、キャッチャーだけが気づいていた。

投げた瞬間、比呂の顔がわずかに歪んでいたことに。

チェンジになると、キャッチャーはすぐに比呂へ駆け寄った。

「おい、大丈夫か? いつもより球が伸びてねぇぞ。まさか……肩、痛めたのか?」

比呂は首を振る。

「まだ肩が……あったまってないだけだよ」

だが病室の愛は、もう気づいてしまっていた。

比呂の投げ方が、明らかに右肩をかばっていることに。

「……もうやめて……」

震える声で愛はつぶやいた。

自分が球場へ向かわせたことを、深く後悔し始めていた。

それでも比呂は、ランナーを背負いながら必死に投げ続けた。

右肩は悲鳴を上げていたが、視線だけは前を向いている。

「……愛が……待ってるんだ……」

その思いだけを支えに、比呂は踏ん張った。

そして八回裏。

仲間たちが意地を見せ、ついに同点へ追いつく。

ベンチが揺れた。

まだ終わらない。まだ勝てる。

九回裏、比呂はふらつく足で打席に立った。

それでも食らいつき、意地でヒットを放つ。

歓声が沸き上がる。

その流れのまま、仲間の一打が試合を決めた。

サヨナラ。

海南高校、決勝進出。

球場が歓喜に包まれる中、比呂はベンチへ腰を下ろした。

右肩を押さえる。

指先のしびれと脈打つような痛みが、肩から腕へ、やがて胸の奥まで広がっていく。

だが、愛のところへ行かなきゃと呟き

愛の病室に向かった。


比呂が病室に着いたころには、外はすっかり日が暮れていた。

静かにドアを開ける。

灯りの落ちた部屋の中、愛は窓の外に広がる夜景を、じっと見つめていた。

その横顔は、どこか頼りなく見えて、比呂は一瞬だけ見とれてしまう。

けれどすぐに我に返り、ベッド脇のスイッチに手を伸ばした。

「電気つけなきゃ」

ぱっと明かりが灯る。

その瞬間、比呂は息を呑んだ。

愛の頬には、涙の跡がくっきりと残っていた。

愛は唇を震わせながら、かすかな声で言う。

「……ごめんなさい……。私のせいで……」

言葉の途中で、また涙がこぼれた。

ぽろぽろと、止まらない。

比呂はそっと近づき、静かに問いかける。

「なにが?」

愛は顔を上げられないまま、震える声で続けた。

「君……肩、痛めてるでしょ……」

比呂は何でもないように笑ってみせると、肩を回した。

その拍子に、わずかに顔が歪んだ。

だがすぐに、何事もなかったような顔に戻す。

「ほら、平気だろ。あと一つで甲子園だ」

無理に明るく笑う声だった。

愛は首を振る。

「……もうやめて……。これ以上やったら……君の肩が……」

その言葉を、比呂は静かに遮った。

「確かに……君のせいだよ」

愛の表情が凍る。

比呂は続けた。

「君のおかげで……やっと自分に正直になれたんだ。

それに……甲子園に行くんだろ?」

愛はこらえきれず、比呂の胸に顔を埋めた。

「……こわいよ……」

かすれた声が、布越しに震える。

「やっと……君と会えたのに……。死にたくないよ……」

嗚咽まじりの言葉が、比呂の胸元にそのまま落ちていく。

比呂はそっと背中に手を回した。

壊れものを扱うように、ゆっくりと。

「大丈夫だよ。奇跡は起こる」

愛が、涙に濡れた瞳を上げる。

比呂はまっすぐに見返した。

「明日、星華高校に勝てるなんて……誰も思ってないだろ?」

「……」

「だから勝つ。勝って……奇跡を起こす。

そしたらきっと……手術も成功する」

愛の目から、またひと粒、涙がこぼれた。

比呂は少し照れたように笑う。

「それに……愛も女の子なんだな」

(とても⋯とてもか弱い⋯⋯)

愛は涙を拭いながら、小さく呟いた。

「……なによ、それ……」

ふたりの間に、静かで、あたたかな時間が流れた。

夜の病室はひっそりとしていたが、その沈黙はもう、さっきまでの孤独なものではなかった。


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