第十六話
■五回表。
西村兄が打席に立つ。
その佇まいは、あまりにも静かだった。
まるで儀式の中にいるかのように、無駄な力が一切ない。
病室。
テレビの前で、愛は胸に手を当てる。
「……頑張って、比呂……」
かすかな声が、白い部屋に溶けていく。
マウンドの比呂は、サインを覗き込む。
汗が頬を伝うが、拭う余裕はない。
——来る。
第一球。
150キロのストレート。
西村兄は——動かない。
微動だにしない。
第二球。
153キロ。
それでも、バットは出ない。
見逃し。
だが、それは“見ていない”のではない。
——待っている。
その確信が、比呂の背筋を冷やした。
タイム。
キャッチャーが駆け寄る。
「……誘われてるな、これ」
低い声。
比呂は視線を外さず、答える。
「わかってる」
「でも、ここで逃げたら——勝てない」
短く、息を吐く。
言い切った。
キャッチャーは一瞬黙り、ふっと笑う。
「神崎さん、見てるんだろ」
軽口のようでいて、核心を突く一言。
「いいとこ、見せろよ」
比呂はわずかに口元を歪めた。
「……何言ってんだよ」
だが、すぐに視線を戻す。
「でも——そうだな」
構える。
深く、踏み込む。
腕を振り抜く。
渾身のスプリット。
——打たせない球。
そのはずだった。
鈍い音。
白球が、高く舞い上がる。
センターが落ち着いて追い、グラブに収めた。
アウト。
だが。
比呂の口から、思わず言葉が漏れる。
「……当てられた?」
完全に崩したはずの球。
それでも、合わせてきた。
ベンチへ戻る西村兄は、わずかに笑う。
「——次はいけるな」
その一言。
キャッチャーの背を、冷たい汗が伝った。
■六回裏。
比呂の打席。
西村弟の表情が変わっていた。
ギアが、明らかに上がっている。
鋭いストレート。
食い込む変化球。
比呂のバットが、空を切る。
三振。
静寂。
ベンチへ戻る途中——
ガンッ!!
バットが地面に叩きつけられた。
「くそっ……!」
抑えきれない苛立ちが、音になって弾ける。
病室。
愛はその姿を見つめ、痛みに顔を歪めながらも、無理に微笑もうとする。
「……大丈夫」
息が浅い。
それでも、言葉を絞り出す。
「比呂なら……大丈夫……」
■七回表。
マウンドの比呂。
一番、三振。
二番、三振。
だが——呼吸が荒い。
肩が上下し、リズムが乱れている。
汗が目に入り、視界が滲む。
三番打者。
フォアボール。
ボールがミットを外れた瞬間、比呂は帽子のつばを強く握りしめた。
——まずい。
自分でもわかる。
だが、止まらない。
同時刻、病室。
愛の視界もまた、滲んでいた。
胸が締めつけられる。
呼吸が浅い。
それでも——
テレビから目を逸らさない。
「比呂……」
声にならない声。
「……頑張って……」
そのとき。
——カキィン。
乾いた金属音が、夜空を裂いた。
白球が、高く、高く舞い上がる。
誰もが見上げる。
そして——
スタンドへ吸い込まれていった。
逆転。
2対1。
時間が、止まる。
マウンドの比呂。
動けない。
やがて、喉の奥から絞り出すように叫ぶ。
「……なんでだよ……!」
拳が震える。
視線が落ちる。
崩れかける。
病室。
その姿を見つめながら、愛はかすれた声で呟いた。
「……下、向かないで……」
その瞬間。
モニターの音が乱れる。
警告音。
心拍が跳ねる。
視界が、暗く沈む。
「神崎さん!?」
ナースコール。
足音。
ドアが開く。
「意識レベル低下!」
「ストレッチャー!」
声が飛び交う。
だが——
愛の意識は、すでに遠くへ落ちていた。
運ばれていく身体。
揺れる天井。
遠ざかる音。
その間も。
テレビの中では——
マウンドに立ち尽くしたまま、
うつむく比呂の姿が、映っていた。
キャッチャーは、違和感を覚えた瞬間にはもう動いていた。
マウンドへ駆け寄り、息の荒い比呂を見上げる。
「比呂、大丈夫か」
肩が大きく上下している。呼吸は乱れ、今にも崩れそうだった。
それでも——その目だけは、消えていない。
「……大丈夫だ。構えろ」
短い言葉。だが、揺らぎはなかった。
そして、ほんのわずかに唇が動く。
「俺たちの邪魔……するなよ」
声にはならない。だが、その言葉に込められたものを、キャッチャーは確かに受け取った。
覚悟だった。
「……わかった」
それ以上は何も言わず、背を向ける。
ホームベースへ戻り、ミットを構えた。
比呂はゆっくりと振りかぶる。
技術でも理屈でもない。
ただ、ねじ伏せるという意志だけで腕を振り抜いた。
三振。
打者が崩れ落ちるのと同時に、比呂の呼吸もさらに荒くなる。
■九回表。二死二塁。
たった一球の甘さが、この局面を招いていた。
空気が重い。観客のざわめきさえ、遠くに感じる。
西村兄が打席へ入る。
ゆっくりと、確かめるように足場を整え、バットを構えた。
キャッチャーが再びマウンドへ向かう。
「歩かせるか」
比呂は、間を置かず首を振った。
「ここで逃げたら——勝てない」
その一言に、迷いはなかった。
キャッチャーは頷く。
「……なら、いこう」
マウンドを離れる。
比呂はランナーを見ない。
ただ、打者だけを見据えている。
一球目。
155キロのストレート。
西村兄は迷いなく振り抜いた。ファール。
乾いた音が、張り詰めた空気をわずかに震わせる。
二球目。
スプリット。
落ちきらない。わずかに甘い軌道。
だが、それが逆にタイミングを狂わせる。再びファール。
西村兄が笑った。
「……もう限界か?」
その声音には、確信が混じっている。
「今、トドメ刺してやるよ」
比呂は歯を食いしばった。
腕が重い。肺が焼けるように痛い。
それでも、止める理由にはならない。
これで終わらせる。
三球目 140キロ。
一見すれば、打ち頃の球だった。
西村兄の中で確信が走る。
——もらった。
フルスイング。
だが、その瞬間。
ボールが、消えた。
「……っ!?」
バットは空を切る。
白球は予想を裏切る軌道で沈み、キャッチャーの腹元へと収まった。
逸らさない。
そのまま一歩踏み込み、タッチ。
アウト。
一瞬の静寂。
次の瞬間、球場がどよめきに包まれる。
「おい比呂!あの球投げるなら言えよ!」
キャッチャーの声が飛ぶ。
西村兄はその場に立ち尽くしたまま、小さく呟いた。
「……なんだよ、今の……」
そして、わずかに笑う。
「消えたぞ……」
その言葉を背に、比呂は膝をついた。
呼吸が追いつかない。視界が揺れる。
■九回裏。
比呂は打席に立った。
キャッチャーがベンチから声をかける。
「本当にいけるのか」
比呂は、わずかにふらつきながらも頷いた。
「……大丈夫だ」
だが、その足取りは重く、確かではない。
初球。
ボールがすっぽ抜ける。
避けきれない。
ドンッ——鈍い音とともに、右肩に直撃した。
衝撃が全身を貫く。
一瞬、意識が遠のく。
それでも、倒れない。
歯を食いしばり、一塁へ向かう。
そして——走った。
盗塁。
転がるように二塁へ滑り込む。
セーフ。
土煙の中、かすれた声が漏れる。
「……愛が……待ってるんだ……」
もう一度。
スタート。
三塁。
歓声が地鳴りのように押し寄せる。
次の打者。
スクイズ。
転がる打球。
比呂はすべてを投げ出すように、ホームへ飛び込んだ。
セーフ。
その瞬間、右肩の奥で何かが弾ける。
鋭い違和感。
だが、顔には出さない。
出せない。
ベンチで、キャプテンがバットを握りしめる。
——決める。
西村弟が振りかぶる。
スライダー。
抜けた。
捕手の脇を転がる。
その直後、弟が肘を押さえた。
ざわめきが広がる。
「大丈夫か!?」
「大丈夫だ!!」
叫ぶ声。
だが、次の一球。
投じられたスライダーは——曲がらなかった。
カンッ。
乾いた、完璧な音。
打球は高く、伸びていく。
誰もが見上げる。
そのまま——スタンドへ。
サヨナラホームラン。
歓声が爆発する。
仲間たちがホームへ駆け寄り、勝利の渦が広がる。
その喧騒の中で。
比呂は、ベンチに座っていた。
荒い呼吸を整えながら、静かに目を閉じる。
——勝った。
ただ、その事実だけが、胸に残る。
けれど。
右肩の奥で、何かが軋んでいた。
小さな違和感。
それは消えず、静かに、確実に——
広がり続けていた。




