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君がいた奇跡  作者: あると


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15/22

第十五話


翌朝。

比呂は部室の扉を静かに開けた。

ざわめきが、一瞬で止まる。

全員の視線を受けながら、彼は一歩前へ出た。

「……今まで休んでて、すみませんでした」

深く、深く頭を下げる。

顔を上げたとき、その頬の腫れが否応なく目に入った。

キャプテンが眉をひそめる。

「おい……その顔、どうした」

比呂はわずかに笑った。

「昨日、ちょっと……いろいろあって」

——病院を勝手に抜け出して看護師に叩かれた、なんて言えるかよ。

心の中で苦く呟く。

キャプテンは短く息を吐いたあと、表情を引き締めた。

「そんなことより……神崎さんは無事なのか?」

間髪入れず、比呂は答えた。

「あいつは大丈夫です」

その目は、まっすぐだった。

「一緒に甲子園に行こうって……約束したから」

その一言で、空気が変わる。

キャプテンの瞳に、火が宿った。

「……そうか。なら、やるしかねぇな」

比呂は静かに頷いた。

それ以上の言葉は要らなかった。

彼はすぐにグラウンドへ向かい、練習に没頭する。

取り出したのは、愛が書いたメニュー。

一つひとつ、噛みしめるようにこなしていく。

まるで、その文字の奥にある想いごと受け取るように。


六月。

予選が始まった。

初戦、二回戦——比呂は温存されたまま、チームは危なげなく勝ち進む。

それでも彼は、打席に立てば結果を残した。

四番打者、打率六割。

もはやチームの中心だった。

そして三回戦。

七回、マウンドに立つ。

静まり返る球場。

投じたのは、新たに磨いたスプリット。

打者のバットは、空を切る。

一本のヒットも許さず、試合を締めた。

歓声が、波のように押し寄せる。

球場が、揺れた。

——準々決勝。

相手は、武州高校。


試合前日。

比呂は病院を訪れた。

「やあ」

ベッドの上で、愛が柔らかく微笑む。

「やあ」

比呂も応じる。

変わらない、はずのやり取り。

愛が手を差し出す。

「ほれほれ」

呆れたように肩をすくめながら、比呂は紙袋からシュークリームを取り出して渡した。

愛は一口だけかじる。

そして、そっと机に置いた。

比呂はわずかに首を傾げる。

「……今日は、がっつかないのか?」

愛は微笑みを崩さないまま言った。

「ちょっとね、さっき食べすぎちゃって。あとでゆっくり食べる」

そう言って、冷蔵庫へしまう。

その仕草に、ほんのわずかな違和感が残った。

だが、それを言葉にすることはできなかった。

愛は話題を変えるように口を開く。

「いよいよ、武州高校だね」

「ああ」

比呂は迷いなく頷く。

「あの時とは違う」

ポケットから取り出したのは、一枚の紙。

愛の書いた練習メニュー。

愛の表情が、ぱっと明るくなる。

「今は四番だもんね」

誇らしさと、どこか遠いものを見るような色が混じる。

そして——ほんの少しだけ、寂しげに微笑んだ。

「私も……テレビの前で応援してるから」

その言葉に、比呂はまっすぐ応えた。

「約束だからな」

愛も小さく頷いた。

そのあと、比呂は立ち上がる。

「じゃあ、また明日」

軽く手を振り、病室を後にした。

ドアが閉まる音。

やがて、足音が遠ざかっていく。

静寂が戻る。

愛はしばらくのあいだ、動かなかった。

ただ——

冷蔵庫にしまったシュークリームを、ぼんやりと見つめていた。

甘い匂いも、さっきの笑顔も、

すべてが遠く感じられる。

そのとき——

コン、コン。

控えめなノック。

「失礼します」

白衣の医師が、静かに入ってきた。

愛は視線を上げる。

医師はベッドの横まで歩み寄り、カルテを閉じた。

「神崎さん。お話とはなんですか」

その声音は穏やかだったが、

どこか慎重だった。

愛は一瞬だけ目を伏せ、

そして小さく頷き、決意した声で話しだした。

「先生……」

一瞬だけ言葉を探すように視線を落として、

それから、まっすぐ顔を上げた。

「私、奇跡は簡単に起こるって知ってるんです」


翌日——準々決勝。

球場に足を踏み入れた瞬間、比呂は空気の違いを感じた。

観客のざわめき、芝の匂い、そして——勝負の気配。

その視線の先に、すでに二人の男が立っていた。

西村兄弟。

兄が口の端を吊り上げる。

「よう、久しぶりだな」

その笑みは、挑発というより確信に近い。

「今度は俺が勝つからな」

比呂は肩をすくめた。

「前、勝ったのはお前らだろ」

兄はゆっくり首を振る。

「試合はな」

一歩、距離を詰める。

「でも——俺はお前からヒットを打てなかった」

その目が、鋭く光る。

「だから引き分けだ。今日は決着つけるぞ」

比呂は短く息を吐いた。

「……わかったよ」

横から弟が腕を組んで口を挟む。

「その前に、俺を打てるかどうかだけどな」

比呂は視線を向ける。

静かに、しかしはっきりと言った。

「今回は——一味違うぞ」

比呂はポケットに入った愛の練習メニューにふれる

一瞬の沈黙。

次の瞬間、兄弟は顔を見合わせ——同時に笑った。

その笑いは、戦いを楽しむ者のものだった。


円陣。

キャプテンが中央で声を張る。

「やることは全部やった!あとはぶつけるだけだ!」

拳が重なる。

「今日は——リベンジだ!」

「おう!!」

声が、空へ突き抜けた。


■一回表。海南高校の攻撃。

マウンドには西村弟。

初球——

カンッ!!

鋭い音が球場を裂いた。

一番打者の打球は、ライト線を切り裂き、そのままフェンス際へ。

二塁打。

弟の表情が歪む。

「……なんだと」

続く二番は迷いなく送りバント。

一死三塁。

三番は粘るも、最後は空振り三振。

そして——

二死三塁。

打席に立つのは、四番・比呂。

病室。

テレビの前で、愛は両手を強く握りしめていた。

「……頑張れ」

弟が低く吐き捨てる。

「チッ……本当は見せたくなかったのに」

投じたのはスライダー。

比呂のバットは空を切る。

愛が小さく呟く。

「違う……もっと脇を締めて——」

同じことを、比呂も感じていた。

二球目。

再びスライダー。

今度は——見極めた。

鋭く振り抜く。

バチィンッ!!

破裂音のような打球。

白球はライト線へ一直線に伸びていく。

比呂は迷いなく加速する。

一塁、二塁を蹴り、三塁へ滑り込んだ。

三塁打。

先制。

病室で、愛が思わず拳を突き上げる。

「よしっ……!」

弟は歯を食いしばった。

「クソ……なんなんだよ、こいつら……!」

後続は倒れたが、

この一点は、重かった。


■一回裏。武州高校の攻撃。

比呂がマウンドに立つ。

一球目——150キロ。

バットが遅れる。

二球目——さらに伸びる。

三球目——空振り。

三者三振。

圧倒的だった。

どよめきが、波のように広がる。


■二回表。

西村兄がバットを肩に担ぎ、打席へ向かう。

「……やっとだな」

その声は、どこか楽しげだった。

マウンド上の比呂は、無意識に唾を飲み込む。

——来る。

初球。

155キロ。

兄はフルスイング。

カンッ!

大きなファール。

「いってぇ……でも、これだよな」

笑っている。

二球目。

同じく155キロ。

今度はギリギリでカット。

キャッチャーが素早くマウンドへ駆け寄る。

「次、スプリットで落とそう」

比呂は頷く。

握りを変える。

投じる。

鋭く落ちる軌道。

——その瞬間。

兄はバットを寝かせた。

バント。

比呂も、キャッチャーも、反応が一瞬遅れる。

だが——

打球はファールラインの外へ転がった。

スリーバント失敗。

アウト。

しかし。

打席を外しながら、兄は笑っていた。

その笑みは——

勝負の結果とは無関係に、何かを掴んだ者の顔だった。

そしてそれが、比呂には——

妙に、不気味に映った。


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