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君がいた奇跡  作者: あると


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14/22

第十四話


次の日も、

その次の日も——

愛は学校に来なかった。

電話をかけても繋がらない。

LINEを送っても、既読はつかない。

最初は、またどこかで眠っているのだろうと思おうとした。

だが、時間が経つほどに、その言い訳は薄れていく。

比呂は放課後になると、落ち着かないまま愛の家へ向かった。

しかし、玄関先で足が止まる。

家の中は真っ暗だった。

カーテンの隙間から覗く気配もない。

まるで、そこに誰も住んでいないみたいだった。

胸の奥で、嫌なざわめきが強くなる。

——なんだよ、これ。

言葉にならないまま、

比呂はただ立ち尽くした。


四月。

比呂はついに決心し、

球場の近くにある、愛が以前入院していた病院へ向かった。

ロビーへ入る。

その視界の先に、見覚えのある姿があった。

愛の両親だった。

声をかけようと、

比呂が一歩踏み出した、その瞬間。

母親が、急にその場へ崩れ落ちた。

「……っ……!」

父親が慌てて支える。

何かを必死に堪えるような、切迫した動きだった。

比呂は咄嗟に柱の陰へ身を隠した。

息が詰まる。

——なんなんだよ……

——何が起きてるんだよ……

見てはいけないものを見てしまったような感覚だけが、

胸の中に重く残った。

結局、何も聞けないまま病院を出る。

帰り道、

比呂の足は半ば無意識に動いていた。

そのとき、スマホが震える。

愛からだった。

《ごめんごめん、落ち方が悪かったから入院しちゃった》

比呂は、震える指で文字を打つ。

《お前、本当に大丈夫なのか》

送信したあと、

しばらく画面を見つめた。

だが、返事は来ない。


翌日、ようやく返信が届いた。

《シュークリームが食べたい》

たったそれだけの文章だった。

けれど比呂には、それが妙に遠回しな呼びかけに思えた。

比呂はすぐに買いに走った。

その日は雨だった。

細い雨がアスファルトを濡らし、病院へ向かう足取りをいっそう重くする。

病室のドアを開けると、

愛は窓の外を見ていた。

雨の向こうを、じっと。

何かを待つように。

あるいは、何かを見送るように。

比呂の気配に気づいて、

愛はゆっくり振り返る。

その顔には、表情がなかった。

「やあ」

いつもの調子のはずなのに、

その一言はひどく乾いて聞こえた。

比呂は何も言えず、

ベッド脇の椅子に腰を下ろす。

しばらく、

雨音だけが二人の間を満たしていた。

やがて愛が、ぽつりと言う。

「……君は変なやつだ。

 お見舞いに来て、何も言わないなんて」

比呂は唇を噛み、拳を握りしめた。

言いたいことは山ほどある。

なのに、喉の奥で言葉がひとつも形にならない。

愛は、窓の外に目を戻してから、静かに続けた。

「……練習、してる?」

比呂はうつむいたまま、小さく答える。

「……君がいないと……」

その先が続かない。

愛はしばらく黙っていた。

それから、まるで独り言のように言った。

「……わたしがいなくなったら、どうする?」

比呂ははっとして顔を上げる。

愛の瞳は、

悲しみとも恐れともつかない色をしていた。

何かを言いたいのに言えない、そんな目だった。

だが次の瞬間、愛は視線を逸らす。

その沈黙を裂くように、看護師が病室へ入ってきた。

「神崎さん、そろそろ診察の時間です」

愛は車椅子へ移され、

静かに部屋を出ていく。

比呂はただ、

その背中を見送ることしかできなかった。


四月。

比呂は部活にも行けなかった。

お見舞いにも、行けなかった。

行こうと思えば行けたのかもしれない。

だが、足が向かなかった。

何かを見てしまうのが怖かったのか。

何かを聞いてしまうのが怖かったのか。

それすら、もう分からなかった。

ただ、何もできないまま日々だけが過ぎていった。

空白のような日々だった。

朝が来て、昼が過ぎ、夜が来る。

それだけが、機械のように繰り返された。


五月。

スマホが震えたのは、何の前触れもない、ただ静かな午後だった。

《シュークリーム食べたい》

愛からのメッセージだった。

その短い文字列を見た瞬間、

比呂の胸の奥で、張りつめていた何かがふっとほどけた。

すぐに立ち上がる。

財布を掴み、病院へ向かった。

病室のドアを開けると、

愛はベッドの上でこちらを見て、かすかに笑った。

「やあ」

いつも通りの声。

いつも通りの顔。

なのに、その“いつも通り”がひどく遠い。

「ほれほれ。シュークリーム」

比呂が差し出すと、

愛は嬉しそうにそれを受け取り、小さく頬張った。

「……久しぶり。美味しい」

素直な声だった。

だからこそ、比呂は何も言えなかった。

愛がふと顔を上げる。

「……投げてる?」

比呂は首を横に振った。

「部活……行ってない」

「なんで?」

その問いは責めるでもなく、

ただ静かだった。

比呂は視線を落とし、

しばらくしてから小さく答える。

「……君がいないと……」

言い切れなかった。

自分でも、何が足りないのか分からないままの声だった。

愛は一瞬だけ目を伏せる。

そして、ほとんど聞こえないほどの小ささで言った。

「……ごめんね、私あんまり良くないみたい

 約束、⋯⋯守れなくてごめんね」

比呂が顔を上げるより早く、

愛は窓の外に目をやった。

「私がいなくても……甲子園、行ってほしいな」

その言葉は、

まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

比呂は立ち上がる。

「……行こうよ」

愛が驚いたように目を見開く。

比呂はそのまま車椅子を引き寄せ、

彼女をそっと乗せた。

「どこに……?」

「内緒」


日が落ちるころ、

学校はすっかり闇に沈んでいた。

比呂は愛を背負い、

静かな校舎の中へ入る。

比呂の足音だけが、

廊下に薄く響いていた。

教室に入ると、

窓際の席へ愛を座らせる。

外には夜空が広がっている。

昼間の喧騒が嘘のように、世界は静まり返っていた。

愛は窓の外を見たまま、

ぽつりと言う。

「……なんか久しぶりだね。

 夜の学校って……静かだね」

少しだけ笑う。

「昼間はあんなに騒がしいのに……」

その横顔は、

ひどく寂しそうだった。

比呂は、窓の外に目を向けたまま言う。

「なあ……もう少し足掻こうよ」

愛は小さく首を振った。

「……だって私はもう……」

比呂が遮る。

「愛にそんな弱音、似合わないよ。

 それに……君が言ったんだ。

 “投げなさい”って」

愛の肩が、かすかに震えた。

比呂は続ける。

「人の人生振り回しといて……

 自分だけ逃げるなんて、ずるすぎるだろ」

その言葉に、

愛は目を見開いた。

比呂はまっすぐ、彼女を見る。

「一緒に行こうよ。

 甲子園」

愛はしばらく黙っていた。

やがて、困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑う。

「……君は自己中だね」

比呂も笑った。

「知ってると思ってた」

二人はしばらく、夜空を見上げていた。

沈黙は重くなく、

むしろ、不思議なほどやさしかった。

比呂はふと手を伸ばし、

星を掴むような仕草をする。

「……あれ、掴めないな。

 もう少しなのに……」

愛はその横顔を見て、

こらえきれないように涙をこぼしながら笑った。

「掴めるわけないじゃん……」

心の中では、言葉にならないものが何度も揺れていた。

——君は自己中だ。

諦めかけて、覚悟を決めていた私に、

“生きろ”なんて言う。

君は、本当に……自己中だ。

愛の瞳は、

星の光を映して、

涙の中で静かに輝いていた。



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