第十三話
比呂がゆっくりと目を開けると、
見慣れない白い天井が視界いっぱいに広がっていた。
焦点の合わない視界の端で、
誰かの影が揺れる。
「……比呂?」
その声で、意識が一気に引き戻された。
愛だった。
眉を寄せ、不安を隠しきれない顔で、
今にも涙をこぼしそうな瞳を向けている。
次の瞬間、記憶が雪崩のように蘇った。
「ここは……? 試合は……!?」
反射的に上体を起こそうとした比呂の肩を、
愛が慌てて押さえる。
「だめ、動かないで」
息を整えるように、ひとつ間を置いてから。
「……みんな、よくやったよ」
静かに、首を横に振る。
「ここ、球場の医務室」
その言葉で、すべてを悟った。
比呂は唇を噛み、
視線を落とす。
「……約束、守れなくて……ごめん」
愛はすぐに首を振った。
「まだだよ」
やわらかく、しかしどこか頼りない声で続ける。
「まだ夏がある」
かすかに震えたその言葉に、
比呂は説明のつかない違和感を覚えた。
「大丈夫だよ……きっと……」
“きっと”だけが、
妙に遠く響いた。
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて比呂は息を整え、
ぽつりと尋ねた。
「……あいつらは?」
愛は少しだけ口元を緩めた。
「比呂をよろしくだって」
それから、少し楽しそうに続ける。
「もうグラウンド戻ってる。練習するって」
「……練習?」
「うん。比呂のせいじゃないって」
その言葉をなぞるように、愛はゆっくりと言った。
「俺たちが打てなくて、助けられなかったから負けたんだって」
比呂は何も言えず、目を伏せる。
「それとね」
少しだけ悪戯っぽく笑って。
「無理しないように見張れって」
ふっと、小さく笑った。
「……みんな、優しいね」
比呂は照れくさそうに顔をそらす。
その空気を切り替えるように、
愛はふと真剣な表情になった。
まっすぐに、比呂を見る。
「でも、この試合で課題ははっきりしたね」
「課題……?」
「体力不足」
即答だった。
「それに、打力も」
比呂の顔がわずかに歪む。
「……うるせぇよ」
愛はくすっと笑う。
「朝練の前に走り込みしようよ。私も付き合う」
少しだけ得意げに。
「嬉しいでしょ?」
比呂は呆れたように息を吐く。
「……打力って、どう鍛えんだよ」
愛は胸を張る。
「元・天才バッターがいるでしょ?」
「小学校の話だろ、それ」
即座のツッコミに、
愛は声を上げて笑った。
ひとしきり笑ったあと、
やわらかく言う。
「今日は帰ろう」
少しだけ、優しく。
「……ちゃんと休んで」
二人は並んで医務室を出る。
夕暮れに染まった球場は、
どこか静かで、
どこかまだ熱を残していた。
その中を歩いていく二人の背中は、
未来を信じているようでいて、
同時に、壊れやすい何かを抱えているようにも見えた。
次の朝から、二人の練習が始まった。
まだ空の色が夜を引きずっている時間、
比呂は一人で走り終え、白い息を吐きながら足を止める。
そのまま、迷うことなく愛の家へ向かった。
やがて玄関が開き、
愛が自転車を押しながら現れる。
「おはよー。今日も走るよ」
軽い調子の声。
「……お前は自転車かよ」
比呂が呆れると、
愛は悪びれもなく笑った。
「監督だからね」
その一言に、
比呂は小さく鼻で笑い、走り出す。
背後で、自転車のタイヤが静かに回った。
河原に着くと、
冬の気配を含んだ風が、乾いた草を揺らしていた。
愛はベンチに腰を下ろし、
じっと比呂のスイングを見つめる。
「肘が開いてる。もっと前で捉えて」
「はいはい……」
気のない返事とは裏腹に、
比呂の動きは少しずつ変わっていく。
バットが風を切る音が、
昨日とは違う響きを帯び始める。
芯を捉えたときの感触が、
確かに近づいていた。
「……天才バッターって、本当なんだな」
振り向きざまに言うと、
愛は答えなかった。
ベンチに座ったまま、
静かに目を閉じている。
眠っていた。
「……しょうがねぇな」
比呂は苦笑し、
自分の上着をそっと肩にかける。
そのまま振り返り、
再びバットを握った。
今度は、一人で。
規則的なスイング音だけが、
冷たい空気の中に響いていく。
時間になると愛を起こし、
二人は並んで学校へ向かった。
それが、当たり前のように続いた。
季節は流れ、十二月の半ば。
河原の風は鋭さを増し、
肌を刺すような冷たさになっていた。
ベンチに座る愛は、
白い息を細く吐きながら比呂を見ている。
「なあ、正月はどうするんだ?
よかったら⋯一緒に初詣でもいかねえか?」
バットを肩に担いだまま、比呂が聞く。
愛は一瞬だけ視線を逸らした。
「年末から年始の二週間……おばあちゃんちに行くんだ」
「そんなに行くのか?」
少しの間のあと、
愛は一枚の紙を差し出した。
「はい、これ」
広げた瞬間、比呂は目を見張る。
細かくびっしりと書き込まれた、
二週間分の練習メニュー。
「……お前、これ……」
「私のいない間、サボったら殺すよ」
睨むような口調。
けれどその奥にあるものは、
責める強さではなく、どこかやわらかいものだった。
「わかってるよ」
比呂は短く答え、
バットを握り直す。
鋭く振り抜く。
その音が、以前よりも確かに重くなっていた。
「愛も久しぶりに振ってみないか?」
何気なく言う。
愛は少しだけ目を細め、
その場に座ったまま微笑んだ。
「やめとくよ。……続けなさい」
その笑顔は、
ほんのわずかに影を落としていた。
正月。
比呂は何気なく、スマホを手に取る。
《あけましておめでとう》
送信。
だが——既読はつかない。
「……また見ないのかよ」
苦笑しながらも、
どこか期待している自分に気づく。
走って、振って、帰る。
その繰り返し。
一週間が過ぎても、
通知は何も変わらなかった。
「なんだよ……」
ぽつりとこぼれた声は、
冬の空気に吸い込まれていく。
そのとき。
「やあ」
背後から、不意に声がした。
振り返る。
そこに、愛が立っていた。
「お前、返事ぐらい——」
言いかけて、止まる。
どこか、違う。
愛は目を伏せ、
少しだけ遅れて笑った。
「ごめんごめん……家に携帯忘れちゃってさ……」
軽い調子のはずなのに、
声はかすかに弱い。
「……で?」
すぐにいつもの調子を取り戻したように、
愛はベンチへ向かう。
「私のいない二週間の成果を見せてくれたまえ」
腰を下ろし、
いつもの笑顔を浮かべる。
比呂はしばらく、その顔を見つめていた。
変わらないはずのものに、
ほんのわずかな違和感が混じる。
——やっぱり、こいつがいないとダメだ。
心の中でそう呟き、ゆっくりとバットを構えた。
1月、2月。
愛は、また二週間ずつ姿を消した。
比呂は気になって仕方がなかった。
だが、聞けなかった。
聞いてしまえば、
何かが、決定的に壊れてしまう気がしたからだ。
だから比呂は何も言わず、
ただ河原に立ち続けた。
愛の書いた練習メニューをポケットに入れ、
冷えきった風の中で、黙々とバットを振る。
乾いた音が、冬の空へ吸い込まれていく。
一方で、キャッチャーも自主練を重ねていた。
その積み重ねの末、ついに“消えるスプリット”を捕れるようになる。
「よし、次はもう一球変化球覚えようぜ」
そう言われた比呂は、
少しだけ考え込んだあと、静かに口を開いた。
「……試したいことがあるんだ」
その目は、迷いを振り切ったように真っ直ぐだった。
そして、三月の終わり。
比呂はいつものように、愛を迎えに行った。
玄関が開く。
現れた愛は、どこかやつれた顔をしていた。
「……ごめんね。
今日で……練習はもう、大丈夫だよね」
その声には、
これまでになかった弱さが滲んでいた。
比呂は、その一言を聞いた瞬間、
胸の奥が嫌な音を立てるのを感じた。
「なんでだよ!」
思わず声が荒くなる。
愛は俯いたまま、
小さく震えるように言った。
「……ごめんね」
それ以上、何も言わない。
何も言えないのではなく、
言わない——そんな沈黙だった。
やがて愛は自転車にまたがり、
逃げるように漕ぎ出した。
「待てよ!」
比呂が追いかけた、その瞬間。
ガシャンッ。
乾いた音が、朝の空気を裂いた。
比呂が駆け寄ると、
愛は倒れていた。
「おい! 大丈夫か!?」
息を呑む。
愛の顔からは、
みるみる血の気が引いていた。
青白い、というより、
どこか熱の抜け落ちたような顔だった。
「……足が……動かない……」
震える声が、か細くこぼれる。
だが比呂の顔を見た途端、
愛はすぐに表情を作り直した。
「変な落ち方したみたい。
足が痛くて……起きれない……」
無理に整えた声。
不自然なほど、いつも通りを装っていた。
愛は震える手を伸ばす。
「……おんぶ」
比呂は何も言わず、その手を取った。
背中に負ぶうと、
愛の身体は驚くほど軽かった。
軽すぎて、
比呂は一瞬だけ息を詰める。
家まで送り届けるあいだ、
愛は小さく肩を預けていた。
けれど、その重ささえ、ほとんど感じなかった。
玄関先で降ろすと、
愛は笑顔を作って手を振った。
「……ありがとう」
その笑顔は、
どう見ても無理に貼りつけたものだった。
翌日。
比呂が学校へ行くと——
愛は来なかった。
いつもなら、もうそこにいるはずの席が空いている。
その事実だけで、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
嫌な予感は、
静かに、しかし確実に輪郭を持ちはじめていた。




