第十二話
キャッチャーの左手首は、紫色に腫れ上がっていた。
それを見た瞬間、愛は息を呑んだ。
「ひどい……!」
声が、思わず漏れる。
キャプテンでもあるキャッチャーは、痛みを押し殺しながら、なお笑ってみせた。
「交代したほうが……」
愛が言いかける。
だが、キャッチャーは首を横に振った。
「比呂の球を捕れるのは……俺しかいない」
震えていた。
それでも、その言葉に迷いはなかった。
「テーピングでガチガチにしてくれ。……頼む」
愛は唇を噛みしめる。
震える指で、傷んだ手首をひとつずつ固定していった。
巻く。
締める。
痛々しいほどに、動きを封じる。
その手を止めずに、キャッチャーがベンチを示した。
「あいつのことも見てやれ」
視線の先にいたのは、上を向いたまま、荒い息を吐いている比呂だった。
愛はすぐに駆け寄る。
濡れたタオルを額に当てると、比呂の身体がびくりと小さく反応した。
「大丈夫……?」
問いかける声は、掠れていた。
比呂は、息を整えながら無理に笑う。
「まだ……準備運動にも……なってねぇよ……」
強がりだと、すぐにわかった。
言葉は途切れ、肩は大きく上下している。
それでも愛は何も言わず、ただそっと肩に手を置いた。
熱かった。
息苦しいほどに、そこに生の熱があった。
海南の攻撃は、あっけなく三者凡退に終わった。
攻撃が続かないまま、時間だけが容赦なく削られていく。
戻ってきたキャッチャーが、愛を見て苦く笑った。
「勝利の女神がそんな顔してたら……運も逃げるぞ」
愛は、唇を結んだまま顔を上げる。
泣きそうな目で、それでも笑おうとした。
「……がんばれ!」
その声に、比呂がゆっくりと顔を上げた。
「……ブサイクな笑い方だな」
そう言って、かすれた声で笑う。
そして、ふらつく身体を引きずるようにして、マウンドへ向かった。
■8回裏
武州は、バントを絡めて揺さぶりをかけてきた。
比呂を走らせるようにバントのふりを繰り返し。
一瞬の判断。
小さな綻びを突くような、いやらしい攻撃。
だが比呂は、粘った。
足がもつれそうになりながらも、腕を振る。
最後はなんとか三者凡退。
ベンチへ戻った瞬間、膝が崩れた。
そのまま、どさりと倒れ込む。
キャプテンが叫ぶ。
「時間を稼いでくれ!」
声が飛ぶ。
だが、海南の打線は変化球を捉えきれない。
またしても三者凡退。
球場の空気が、重く沈んだ。
■9回裏
打順は1番から。
しかし、比呂の足はもう、立つだけでも精一杯だった。
愛は比呂の背中を強く叩いた。
それは励ましというより、覚悟を叩き込むような手だった。
その目には、もう迷いがない。
「……出番だよ」
比呂は、ゆっくりと立ち上がる。
「……もう少し、だよな」
声は掠れていた。
それでも、ふらつく身体を引きずるように、マウンドへ向かう。
だが――
ストライクが、入らない。
3連続フォアボール。
ノーアウト満塁。
武州ベンチがざわめき、スタンドの空気が一気に張り詰める。
打席には、西村兄。
「……やべぇな」
比呂の視界はぼやけていた。
足元が揺れ、膝は今にも折れそうだった。
そのとき、ベンチの愛が目に入る。
目を閉じ、必死に祈っていた。
比呂は、かすかに笑った。
「……また見ねぇのかよ」
次の瞬間、振りかぶる。
不思議だった。
さっきまで全身を蝕んでいた疲労が、どこかへ引いていく。
——ズドンッ。
155キロ。
ミットが悲鳴を上げ、キャッチャーの顔が歪む。
西村兄が低く呟いた。
「……化け物かよ……」
二球目。
再び、155キロ。
空振り。
球場がどよめく。
三球目。
比呂は、残った力をすべて腕に集めた。
——156キロ。
兄のバットは空を切る。
三振。
その瞬間、スタンドが爆発した。
だが――
次の打者に向かい振りかぶると
比呂の身体が、ふっと揺れる。
そして、そのまま前へ倒れ込んだ。
「比呂!!」
愛の悲鳴が、球場に響いた。
審判の声が、鋭く突き刺さる。
「ボーク!!」
押し出し。
ゲームセット。
歓声は起きなかった。
あるのは、ただ呆然とした静寂だけだった。
海南の選手たちは立ち尽くす。
誰も言葉を発せない。
比呂は、もう動かない。
愛は震える手で口を押さえ、
それでもこぼれ落ちる涙を止められなかった。
準決勝は終わった。
比呂が崩れ落ちた、その音とともに。




