第十一話
準決勝が、幕を開けた。
相手は第2シード、武州高校。
投打の核――西村兄弟を擁する、完成度の高いチームだ。
静かなざわめきの中、試合が動き出す。
■1回表 海南高校の攻撃
マウンドに立つのは、西村弟。
しなやかなフォームから放たれるカーブは、鋭く、そして遅い。
打者のタイミングを外すように、次々とストライクゾーンへ滑り込んでくる。
海南打線は対応できない。
バットは空を切り、あるいは泳ぎ、芯を外される。
三人。
わずかそれだけで、攻撃は終わった。
ベンチに戻る足取りが、重い。
■1回裏 比呂のマウンド
比呂は帽子のつばを深く下げた。
「任せろ」
それだけを、低く落とす。
次の瞬間、腕が振り抜かれた。
——ズドン。
重い音。
ボールは一直線にミットへ吸い込まれる。
2番打者まで、ほとんど抵抗を許さない。
数球で、あっさりとツーアウト。
そして、打席に立つのは――西村弟。
先ほどまでマウンドにいた男が、今度はバットを握る。
短く持ち、構えた。
初球。
——空振り。
二球目。
——空振り。
完全に遅れている。
だが――
三球目。
不意に、バットが寝かされた。
「っ……!」
セーフティバント。
比呂は反応し、前へ飛び出す。
だが、一塁はわずかに――セーフ。
「くそ……!」
思わず漏れたその一言を、かき消すように声が飛んだ。
「落ち着こう!」
海南ベンチから。
愛の声だった。
比呂は振り返らない。
「……わかってる」
短い返答。
だがその声は、確かに芯を取り戻していた。
胸の奥に、力が戻る。
■西村兄との初対決
ランナーを背負い、比呂は振りかぶる。
——ズドンッ。
捕手のミットが爆ぜた。
150キロ。
打席の兄が、思わず息を漏らす。
「……すげぇな」
二球目。
再び、150キロ。
兄は踏み込み、フルスイング。
——カンッ。鋭い音。ファール。
「いってぇ……」
手を振りながら、笑う。
そして三球目。
比呂は、さらに腕を振り抜いた。
——155キロ。
バットは、空を切る。
遅れて響く、ミットの轟音。
スタンドが揺れた。
歓声が爆発する。
兄は顔を歪めながらも、どこか楽しげに笑った。
「面白くなってきたな……」
■4回まで 0−0
スコアは動かない。
だが、試合は止まっていなかった。
一球ごとに張り詰め、わずかな綻びを待つように、緊張だけが積み重なっていく。
■4回裏 再び兄との勝負
ツーアウト。
比呂の肩が、大きく上下していた。
呼吸が荒い。
キャッチャーがマウンドへ駆け寄る。
「飛ばしすぎだ。落ち着け」
比呂は短く頷いた。
振りかぶる。
——カンッ。
打球が、高く舞い上がる。
スタンドへ――入った、かに見えた。
だが、わずかにポールの外。
ファール。
兄が、にやりと笑う。
「そろそろ限界か?」
比呂は、歯を食いしばる。
次の球。
またしても強振。
再び、大きな当たり。
そして――これも、紙一重でファール。
空気が、張り裂けそうになる。
キャッチャーが、もう一度マウンドへ来た。
「スプリットを投げるぞ」
比呂の目が、わずかに見開かれる。
「……なんで知ってんだよ」
キャッチャーは、口元だけで笑った。
「“消えるスプリット”だろ?
⋯俺がそらさない。投げろ」
差し出されたミットは、揺るがない。
そこには迷いがなかった。
信じ切っている構え。
比呂は深く息を吸い込む。
肺の奥まで、空気を満たす。
そして、小さく呟いた。
「……どうなっても知らねぇぞ」
振りかぶる。
指先に、すべてを乗せる。
——スプリット。
ボールが、放たれた。
軌道は、ただの直球に見えた。
まっすぐ――西村兄のミートポイントへ吸い込まれていく。
「——打ち頃だな」
迷いはない。
兄は全身の力を乗せ、バットを振り抜いた。
だが。
——何も、当たらない。
空を裂く音だけが、虚しく残る。
「……っ!?」
兄の目が見開かれる。
反射的に振り返る。
白球は、キャッチャーの後方で転がっていた。
「な……」
一瞬、理解が追いつかない。
だがすぐに身体が動く。
兄は一塁へ駆け出し、
間一髪でベースを踏んだ。
セーフ。
球場がざわめく。
“消えた”
誰もが、同じ言葉を思い浮かべていた。
次の打者は打ち取った。
だが比呂の肩は大きく上下している。
呼吸が荒い。
限界は、すぐそこまで来ていた。
■7回1アウト
再び、西村兄。
初球。
比呂の投じたボールを、兄は迷いなく振り抜く。
打球は高々と舞い上がり――ファール。
兄はゆっくりとバットを握り直す。
「……あの球じゃねえのか」
低い声。
そこに滲むのは、恐れと、抑えきれない高揚。
キャッチャーが、すぐにマウンドへ駆け寄った。
「比呂。全球スプリットでいくぞ」
比呂の瞳が揺れる。
「でも……」
「俺が身体張ってでも止める」
言葉を、断ち切るように続けた。
「お前は投げろ。勝つために」
比呂は唇を噛み、そして頷いた。
■2球目
スプリット。
放たれた瞬間は、直球と見分けがつかない。
だが――
途中で、消えた。
キャッチャーのミットをかすめ、
ボールは後方へ逸れる。
兄は動かない。
ただ、乾いた笑みを浮かべた。
「……化け物かよ」
■3球目
サインは、迷いなく同じ。
スプリット。
比呂は深く息を吸い込む。
残っている力を、すべて指先に込める。
振り抜く。
ボールが、走る。
そして――落ちる。
いや、視界から消える。
兄のバットが、空を切った。
同時に。
——鈍い音。
「っ……!」
キャッチャーの左手首に、衝撃が走る。
ミットの芯を外したボールが弾かれ、
前方へ転がる。
痛みに顔を歪めながらも、
キャッチャーは食らいつく。
拾う。
踏み込む。
投げる。
一塁へ――
——アウト。
一瞬の静寂のあと、
球場が揺れた。
歓声が爆発する。
兄は動かない。
その表情に浮かんでいるのは、悔しさではなかった。
「……なんなんだよ、あの球……」
初めて滲んだ、“恐怖”。
■次の打者
比呂は、残された力を振り絞る。
一球、一球に、すべてを込める。
そして――三振。
この回を、抑え切った。
だが。
キャッチャーは、その場から動かなかった。
左手を押さえている。
ミットを外す。
露わになった手首は、紫色に腫れ上がっていた。
比呂の息が止まる。
キャッチャーは、顔を上げた。
「……言ったろ」
痛みを押し殺しながら、笑う。
「身体、張るって」
その笑顔は、歪で、痛々しくて――
それでも。
誇らしかった。




