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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
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梨の花の残像

 朝倉汐里の過去を辿ることは、底のない井戸を覗くような作業だった。

 菅野が情報を集め始めたのは、身元確認の翌日からだった。手がかりになったのは、三〇二号室の賃貸契約書に記載されていた保証人の情報と、所轄の刑事が共有してくれたわずかな背景情報、それから貫井と礼香と湊人、三人の断片的な証言だった。

 父親の名前は朝倉誠一。連絡先として記載されていた番号は、現在使われていなかった。契約書の住所に手紙を送ったが、三日後に宛先不明で戻ってきた。

 菅野は別の経路を辿った。

 汐里が高校まで通っていた地域を、湊人との会話から推定できた。湊人は「小学校からずっと同じ学校」と言っていた。湊人のアパートの住所から逆算すると、出身地域はおおよそ絞れた。その地域の公立高校を当たり、卒業生の記録を確認するのに二日かかった。

 朝倉汐里は、七年前にその高校を卒業していた。

 担任だった教師は、今も同じ学校に在籍していた。電話で話を聞くことができた。

 「朝倉さんですか」と教師は言った。五十代とおぼしき女性の声で、電話口でしばらく沈黙があった。「覚えています。よく覚えています」

 「どんな生徒でしたか」

 また沈黙があった。

 「真面目な子でした」と教師は言った。「目立つタイプじゃなかったけれど、提出物はいつも期限通りで、授業中も静かに聞いていて。ただ」

 「ただ」

 「高校二年の終わりごろから、急に変わったんです。遅刻が増えて、顔色が悪くなって。三年になってから少し持ち直しましたけど、最後まで元通りにはなりませんでした」

 菅野は書き留めた。高校二年の終わり。

 「その時期に、何かご家庭で事情があったとか」

 「詳しくは分かりません」教師は言った。「家庭訪問をしようとしたんですが、ご両親と連絡が取れなくて。本人も、家のことは話したがらなかった」

 「卒業後の進路は」

 「専門学校への進学を希望していましたが、結局行かなかったと思います。その後のことは、私には分からない」

 「卒業式には出席しましたか」

 「出ました」教師は少し間を置いた。「卒業式の朝、式の前に少しだけ話したんです。大丈夫、と本人が言って。笑っていました。きれいな笑顔でした」

 菅野は「ありがとうございます」と言って、電話を切った。

 高校二年の終わり。両親との連絡が取れなくなった時期。専門学校への進学が叶わなかった時期。点と点が、緩やかに線を形成しようとしていた。


 午後、菅野は岡崎湊人にもう一度会いに行った。

 今度は湊人の方が、少しだけ多く話す準備ができているように見えた。アパートのドアを最初から大きく開けて、部屋に上がるよう促した。四畳半の部屋に、作業用の道具が隅に置かれていた。生活感はあったが、物は少なかった。

 「汐里の両親のことを教えてもらえますか」と菅野は言った。

 湊人は畳の上に座って、少し考えた。

 「汐里が高二のとき、お父さんの会社が潰れたんです」と湊人は言った。「建設関連の下請けで、取引先が倒産してあおりを食らった形だと聞きました。負債がかなりあって」

 「それで両親は」

 「逃げました」湊人は静かに言った。感情を乗せないように、意図的に平坦にしているような言い方だった。「汐里が高三になってすぐのころ。ある朝起きたら、二人ともいなかったと聞きました」

 菅野はそれを書き留めた。

 高校三年の春。両親が失踪。負債が残された。

 「汐里さんはそのあと、どうやって生活していたんですか」

 「バイトです。卒業まではバイトで食いつないで、でも専門学校の学費が出せなくて」湊人は膝の上に手を置いた。「俺も当時はまだ学生で、何もできなかった。少しお金を渡そうとしたら、断られました」

 「断った理由は」

 「迷惑かけたくなかったんだと思います」湊人は言った。「昔からそういう子でした。しんどくても、顔に出さない。人に頼れない」

 「その後、南区に引っ越してきたのはいつごろですか」

 「二十歳か、二十一歳ごろだと思います。俺に連絡が来なくなったのが、ちょうどそのころで」湊人は少し顔を伏せた。「次に連絡が来たのは、一年以上後でした。元気だから心配しないで、という短いメッセージだけで」

 「返信しましたか」

 「しました。会いたいと書いた。返事はなかった」

 菅野は湊人の横顔を見た。

 幼馴染として、彼女の変化を外側から見続けていた男。それ以上近づくことを拒まれ、それでも連絡し続けた男。事件当夜に怒鳴り合いになった男。

 菅野の中で、湊人は「怪しい人間」の枠に入っていた。事実として、動機も機会も揃っている。ただ、湊人が語る汐里の像が、ほかの誰も語らなかった種類のものだった。翠でも、源氏名の女でもなく、朝倉汐里という一人の人間として。

 それが湊人の誠実さを示すのか、あるいは巧妙な演技なのか、今の菅野には判断できなかった。

 「事件当夜のことを、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」

 湊人は頷いた。

 「汐里に電話したのが夜の十時ごろです。今夜会いたい、大事な話があると言った。彼女は最初、会わないと言いました。でも俺が食い下がって、三十分後に店の裏の路地で会うことになった」

 「店というのは、貫井さんの店ですか」

 「そうです。彼女が働いてる場所の近くで」

 「会って、何を話しましたか」

 「最初は普通に話そうとしていました。でも彼女の顔を見たら、うまく言葉が出なくて」湊人は手を組んだ。「ここを出よう、と言ったら、急に顔が変わった。もう関わらないでくれ、あなたのことは何とも思っていない、消えてくれ、という感じのことを言われた」

 「それで言い合いになった」

 「俺も怒鳴ってしまいました。どうして俺を拒むんだ、どうして一人で抱えようとするんだ、という感じのことを」湊人は目を伏せた。「今思うと、最悪でした。彼女の立場も気持ちも、何も考えていなかった」

 「そのあと」

 「隣の建物の窓が開いて、人が顔を出した。汐里も、もういいから、と言って背を向けた。俺はその場を離れました」

 「彼女はそのあと、どちらに向かいましたか」

 「分かりません。俺が先に行ったので」

 菅野はメモを取りながら、時系列を確認した。湊人が立ち去ったのが十一時から十一時半。遺体の発見が翌朝四時過ぎ。その間の汐里の行動が、まだ見えていなかった。


 アパートを出て、菅野は繁華街の方向へ歩いた。

 事件当夜の汐里の動きを追うには、店の周辺をもう一度当たる必要があった。目撃者がいるかもしれなかった。防犯カメラの映像が残っているかもしれなかった。それらは警察も動いているはずだったが、菅野は自分の目で確認したかった。

 繁華街に入ると、昼間でもネオンが光っている店があった。飲み屋、カラオケ、クリーニング屋、コンビニ、その間に名前のない扉が挟まっている。貫井のビルはこの一帯の中心から少し外れた場所にあった。

 路地を歩きながら、菅野は汐里がここを歩いていた夜のことを想像した。

 十一時過ぎ。湊人との言い合いのあと。疲れた顔で、どちらに向かったのか。

 答えは出なかった。

 路地の突き当たりまで歩いて、戻ろうとしたとき、前方から人が来た。

 白いシャツ、スラックス、コート。

 前に一度見た顔だった。昨日、現場の前で話しかけてきた若い男だった。

 男は菅野に気づくと、少し驚いたような顔をした。

 「また会いましたね」と男は言った。

 「そうですね」菅野は答えた。

 「この辺をよく歩かれるんですか」

 「仕事で」菅野は言った。「あなたは」

 「この先に勤め先があるので」男は言った。「昨日も申し上げましたが、たまに通る道で」

 男の目が、路地の奥をちらりと見た。遺体が発見された方角だった。

 「昨日のニュースで、被害者の方の名前が出ましたね」と男は言った。「若い方で」

 「ええ」

 「気の毒に」男は言った。それは本心から言っているように聞こえた。「誰かに恨まれる理由なんて、ないような方に思えて」

 菅野は男の顔を見た。

 根拠はなかった。ただ、この男が二日続けてこの路地に現れた、という事実を、菅野は記憶の引き出しにしまった。

 「お名前を伺ってもいいですか」と菅野は言った。

 男は少し間を置いた。不審がるわけでもなく、ただ少し考えるような間だった。

 「柏木といいます」と男は言った。「柏木京介」

 「菅野です」菅野は名刺を渡した。「調査の関係で、この辺を歩いています。何か気になることがあれば」

 柏木は名刺を受け取って、一度見てから、コートのポケットに入れた。

 「何もないとは思いますが」と彼は言った。「覚えておきます」

 菅野は頷いた。

 柏木は軽く会釈して、路地を歩き去った。菅野はその背中を見送った。

 二十代前半。清潔な印象。落ち着きすぎた目。この付近に勤め先があるという。

 菅野は特に何かを感じたわけではなかった。

 ただ、名前を聞いておいてよかった、とは思った。この仕事では、後になって名前が必要になることがある。それだけのことだった。

 菅野はコートの襟を立てて、繁華街の方向へ歩き続けた。今日中にもう一度、貫井のビルに寄るつもりだった。

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