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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
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幼馴染の夜

 岡崎湊人の住所を割り出したのは、翌朝のことだった。

 貫井が教えてくれたのは名前だけだったが、翠との関係が「昔の知り合い」であること、建設関係の仕事をしていること、この二点を手がかりに、菅野は知人のつてを辿った。探偵の仕事の大半は、こういう地道な経路の確認で成り立っている。派手な聞き込みよりも、電話を何本もかけて、少しずつ情報を寄せ集める作業の方が、実際には多い。

 湊人が住んでいたのは、南区から電車で三駅ほど離れた場所にある、古いアパートだった。木造二階建て、外階段、郵便受けの文字が雨で滲んでいる。そういう建物だった。

 午前十時に訪ねると、本人がいた。

 ドアを開けた男は、菅野を見て少し身構えた。二十代前半。長身だが、背中が少し丸まっていた。作業着のような格好をしていたが、今日は仕事を休んでいるのか、それとも仕事がないのか、判断できなかった。目の下に隈があった。

 「岡崎湊人さんですか」

 男は頷いた。

 名刺を渡して、事情を説明した。湊人は菅野を部屋に上げることも、外に出ることも、どちらもしなかった。ドアを半分開けたまま、そこに立っていた。

 「翠のことを調べているんですね」と湊人は言った。

 「はい」

 「汐里のことを」

 菅野はメモを取る手を止めた。

 「汐里、というのは」

 「本名です」湊人はドアの縁に手をかけた。「朝倉汐里。俺は翠なんて名前で呼んだことない」

 菅野は少し間を置いた。

 今この瞬間まで、三〇二号室の契約書にあった「朝倉汐里」という名前と、路地に倒れていた女が、同一人物であるという確証はなかった。身元確認はまだ進行中だった。しかし湊人の口から出た「朝倉汐里」という名前が、全部を繋ごうとしていた。

 「あなたは彼女とどういう関係でしたか」

 「幼馴染です」湊人は短く言った。「小学校からずっと同じ学校で、高校まで一緒だった」

 「最近も連絡は取っていましたか」

 湊人は少し顔を歪めた。歪め方が、痛みに近かった。

 「たまに。彼女が嫌がっても、俺が連絡していた」

 「嫌がっていたというのは」

 「今の仕事を、俺に知られたくなかったんだと思います」湊人は言った。「でも俺は知ってた。知ってて、それでも連絡してた」

 「最後に会ったのはいつですか」

 湊人は答えなかった。

 菅野は待った。

 「事件の夜です」と湊人は最終的に言った。「十一月の、あの夜」

 菅野はペンを持ったまま、動かさなかった。

 「どこで会いましたか」

 「彼女が働いてる店の近く、繁華街の路地です。呼び出したのは俺の方で」湊人は目を伏せた。「一緒にここを出よう、と言いたかった。この街を出て、どこか別のところで働けばいいと。俺も仕事を変えるから、と」

 「彼女の反応は」

 「怒鳴られました」湊人は静かに言った。「あなたに関係ない、消えろ、二度と来るな。そういうことを言われた」

 「それで」

 「言い合いになりました。俺も怒鳴り返してしまった」湊人は手をドアの縁から離して、腕を組んだ。「近くの部屋の人が窓を開けて、何事かという顔でこっちを見ていた。それで俺は引いた。その場を離れた」

 「何時ごろのことですか」

 「十一時か、十一時半か。そのくらいです」

 「それが最後ですか」

 「はい」

 菅野は湊人の顔を見た。嘘をついているようには見えなかった。ただ、嘘をついていないことと、全部を話していることは、別の話だった。

 「その後、彼女がどうなったか確認しましたか」

 「しませんでした」湊人は言った。「怒鳴り合いで別れたんで、すぐに連絡できなくて。翌朝ニュースを見て、初めて知りました」

 菅野は「隣人が通報したのはご存知ですか」と訊いた。

 湊人は頷いた。「警察から話を聞きたいと連絡がありました。昨日、話してきました」

 「何を話しましたか」

 「あの夜のことを、全部。言い合いになったことも、自分が立ち去ったことも」湊人は菅野を見た。「隠すつもりはないです。ただ、俺がやったわけじゃない」

 菅野は何も言わなかった。

 やったわけじゃない、という言葉を、この段階で評価するつもりはなかった。


 アパートを出て、菅野は駅まで歩いた。

 十一月の朝の風は、昨日より少し強かった。枯れ葉が路面を滑っていった。

 岡崎湊人。幼馴染。事件当夜に言い合い。その後、女の消息を確認していない。隣人が「争う声」として通報。警察がすでに事情を聴いている。

 動機と機会、どちらも揃っていた。

 ただ、菅野が引っかかったのは別のことだった。

 湊人は彼女を「汐里」と呼んだ。「翠」ではなく。

 それはつまり、彼にとって彼女は常に「朝倉汐里」であり続けた、ということだった。その事実がどういう意味を持つのか、今の段階では判断できなかった。ただ、記憶の中に残しておく必要があった。

 駅の改札を抜けながら、菅野は今日の午後の予定を考えた。

 所轄の刑事に連絡を入れて、身元確認の進捗を確認する。貫井に、警察への連絡を改めて促す。藤田については、横領の件をどう扱うか、慎重に考える必要があった。

 ホームで電車を待っていると、スマートフォンが鳴った。

 所轄の刑事からだった。

 「身元が確認されました」と刑事は言った。「歯科記録が一致しました。被害者は朝倉汐里、二十三歳です。」

 菅野は電車のホームに立ったまま、少しの間、何も言わなかった。

 「分かりました」と菅野は言った。

 「菅野さんの方で把握している情報があれば、共有してもらえますか。午後、時間を取れますか」

 「取れます」

 電話を切った。

 電車が来た。菅野は乗り込んで、空いている席に座った。

 朝倉汐里。二十三歳。

 名前と顔が、ようやく一致した。三〇二号室の化粧品と、鏡の隅の金色の星と、路地に倒れていた女が、今この瞬間に同じ一人の人間として繋がった。

 菅野はノートに「朝倉汐里・確定」と書いた。

 それだけ書いて、ペンを置いた。


 午後、所轄で情報を共有した帰り道だった。

 事件現場の近くを通ると、規制線はすでに撤去されていた。路地の入口には、今は何もなかった。通行人が普通に歩いていた。花や供物を置いた人間がいたのか、それとも誰も置かなかったのか、菅野には分からなかった。

 足を止めて、路地の奥を見ていた。

 「ここで何かあったんですか」

 声をかけられて、菅野は振り返った。

 若い男が立っていた。二十代前半。白いシャツにスラックス、コートを着ていた。仕事帰りにしては少し早い時間だったが、そういう格好だった。顔の輪郭が整っていて、全体的に清潔な印象だった。

 「少し前に事件があった場所です」と菅野は答えた。

 「ああ」男は路地の奥を見た。「ニュースで見ました。若い女性が亡くなったという」

 「ご存知でしたか」

 「いえ」男は首を振った。「この辺はたまに通るんですが、こんな路地があるとは知らなくて」

 菅野は男の顔を見た。二十代前半。目が静かだった。静かというよりも、落ち着きすぎているという印象だった。しかしそれは、人によっては単に内向的な気質を意味するだけかもしれなかった。

 「お仕事帰りですか」と菅野は訊いた。

 「ええ、少し早上がりで」男は菅野を見た。「あなたは」

 「通りすがりです」

 男は軽く頷いて、「そうですか」と言った。それ以上は話しかけてこなかった。

 菅野も特に引き止めなかった。

 男はそのまま歩き去った。コートの背中が、夕方の人混みに溶けていった。

 菅野は路地の入口に立ったまま、しばらくそちらを見ていた。

 若い男というのは、この街にいくらでもいる。

 菅野は視線を路地の奥に戻して、もう一度だけ確認してから、その場を離れた。被害者が朝倉汐里だと確定した今、捜査の方向を整理し直す必要があった。今夜中に、もう一度ノートを開くつもりだった。

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