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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
4/50

横領の重さ

 藤田正彦に会ったのは、夕方の六時を少し回ったころだった。

 待ち合わせに指定してきたのは、駅から徒歩十分ほどの場所にあるファミリーレストランだった。窓際の席に一人で座っていた。ドリンクバーのコーヒーカップが、テーブルの上で湯気を失っていた。

 四十代前半。中肉中背。髪は短く、清潔感はあったが、どこかが崩れていた。姿勢が悪いというよりも、全体的に沈んでいた。重力に少し余分に引っ張られているような印象だった。

 菅野が向かいに座ると、藤田は「菅野さん、ですか」と確認した。声は低く、かすれていた。

 「はい」

 「貫井から連絡もらいました」藤田はカップを持ったが、飲まなかった。「翠のことを調べているって」

 「ええ」

 「死んだのが翠だと思ってるんですか」

 この質問は、今日で二度目だった。貫井のときと同じ質問。菅野は同じ答えを返した。「まだ確認できていません」

 藤田は少し俯いた。「そうですか」

 「翠さんのことを教えてもらえますか」

 「どこから話せばいいか」藤田は言った。獣が傷口を舐めるような、そういう間があった。「お客として行ってたのは、一年半くらいです」

 「最後に会ったのは」

 「九月の頭です。正確には九月三日」

 日付まで即座に出てきた。菅野はメモを取りながら、そのことに注意を払った。

 「店で会ったんですか」

 「店じゃないです」藤田は視線をテーブルに落とした。「外で会っていました。最後の方は」

 「本指名以外での接触を、店側は把握していましたか」

 「してないと思います」

 菅野は少し間を置いた。

 貫井が「本人に直接会いに行くくらいの客だった」と言っていた意味が、ここで繋がった。店を通さない接触。それは店側のルール違反であり、女性側にとってもリスクだった。それでも会っていた。

 「翠さんは、外で会うことを了承していたんですか」

 藤田は少し黙った。「最初は、はい」

 「最初は」

 「途中から、嫌がってました」藤田はカップをソーサーの上に置いた。音が少し大きかった。「それでも、私が会いに行ってしまっていた」

 菅野はその言葉を書き留めた。書きながら、藤田の横顔を見た。後悔の形をしているが、後悔の中にも種類がある。失ったことへの後悔なのか、やったことへの後悔なのか、この段階では判断できなかった。

 「九月三日に会ったとき、翠さんの様子はどうでしたか」

 「疲れていました」藤田は言った。「会うたびに、少しずつ疲れていった。九月のときが一番ひどかった」

 「何か話しましたか」

 「もう会いに来ないでくれ、と言われました」藤田は窓の外を向いた。「はっきり言われたのは、そのときが初めてでした。それ以前は、なんとなく避けられているだけで」

 「それで、会うのをやめたんですか」

 藤田はすぐに答えなかった。

 「やめました」と彼は最終的に言った。「それ以降は、会っていません」

 菅野は「その後、翠さんの消息を知ろうとしましたか」と訊いた。

 「店に電話しました。一度だけ。貫井に、もう翠はいないと言われて、それで終わりです」

 菅野は藤田の手元を見た。指輪はなかった。左手の薬指の日焼けの跡も、なかった。独身か、あるいはすでに離婚しているか。

 「仕事は」と菅野は訊いた。唐突な質問だったが、藤田は驚かなかった。

 「会社員です。事務職」

 「翠さんへの支出は、どのくらいでしたか」

 長い沈黙があった。

 ファミリーレストランの店内には、家族連れが二組いた。子供の声が、遠くから聞こえていた。

 「言わないといけませんか」と藤田は言った。

 「今は言わなくていいです」菅野は答えた。「ただ、警察が動いたときに、同じことを訊かれる可能性があります」

 藤田は両手を組んで、テーブルの上に置いた。

 「会社のお金を、少し使っていました」

 菅野はペンを止めた。

 「少し、というのは」

 「累計で、三百万ほどです」

 菅野は何も言わなかった。藤田も何も言わなかった。子供の笑い声が、また遠くから聞こえた。

 「今も、会社に在籍していますか」

 「しています。まだ、発覚していないと思っています」藤田は組んだ手を見ていた。「ただ、時間の問題だとも思っています」

 「翠さんへの気持ちは、今はどうですか」

 藤田は少しだけ顔を上げた。菅野と目が合った。

 「好きでした」と彼は言った。「それは本当のことです。ただ、それと私がやったことは、別の話だと今は思っています」

 菅野はその言葉を書き留めなかった。

 書き留めるべき種類の言葉ではなかった。


 ファミリーレストランを出ると、夜になっていた。

 十一月の夜は早い。六時を過ぎれば完全に暗く、繁華街の明かりだけが地面を照らしている。菅野はコートの襟を立てて、駅の方向へ歩いた。

 藤田正彦。横領、三百万。翠への執着。九月三日が最後の接触。

 動機という意味では、十分な材料があった。拒絶された男というのは、場合によって何をするか分からない。それは菅野が刑事だったころに何度も見てきたことだった。

 ただ、今日の藤田の目に、暴力の気配は感じなかった。疲弊していた。自分がやったことの重さを理解していて、それでもどこかに言い訳を探しているような、そういう疲れ方をしていた。

 それが演技である可能性は、排除できなかった。

 菅野は駅の手前で立ち止まり、今日一日で集まった情報を頭の中で並べた。

 貫井、礼香、藤田。三人が翠を知っていた。三人とも、まだ警察に連絡していなかった。それぞれに、それぞれの理由があるのだろう。

 もう一人、まだ当たっていない人間がいた。

 岡崎湊人。菅野はまだその名前を貫井から聞いただけで、どういう人物なのかほとんど分かっていなかった。「翠の昔の知り合いだ」と貫井は言った。「事件の夜、近くにいたという話もある」

 菅野はそれをメモしていた。

 昔の知り合い。事件の夜、近くにいた。

 明日、当たってみる必要があった。


 自宅に戻ったのは、夜の九時を過ぎたころだった。

 菅野が住んでいるのは、古い分譲マンションの一室だった。広くはないが、本と資料が積み上がっているせいで、さらに狭く見えた。台所でインスタントの味噌汁を作り、冷蔵庫にあった残り飯を温めて食べた。

 食べながら、ノートを見返した。

 今回の件で奇妙なのは、被害者の身元がまだ確定していない、という点だった。二十三歳という年齢でありながら、指紋の照合でヒットがなく、歯科記録の照合にも時間がかかっている。家族からの捜索願も、今のところ出ていなかった。

 家族がいないか、あるいは家族が動けない状況にあるか。

 三〇二号室の契約書にあった保証人、父親の名前。その番号に電話しても繋がらなかった。

 菅野はそこで手を止めた。

 両親の連絡が取れない。賃料の滞納。水商売。二十三歳。

 それぞれの事実は、単独では何も意味しない。しかし並べると、ひとつの輪郭が浮かんでくる。輪郭を見てから事実を解釈するのは危険だと菅野は知っていた。それでも、輪郭は浮かんでくる。

 菅野は味噌汁を飲み干して、ノートを閉じた。

 翌朝、岡崎湊人のところへ行くつもりだった。

 そして今夜のうちに、もう一度だけ、最初の現場のことを考えておきたかった。

 整えられた顔。エメラルドの髪。それ以外の部分との乖離。

 加害者が顔を整えた理由が、どうしても頭の中で決まらなかった。顔を隠したかったわけではない。損傷がなく、むしろ丁寧に手入れされていた。それは何を意味するのか。

 菅野にはまだ答えがなかった。

 ただ、その問いだけが、ほかの何よりも長く頭の中に残っていた。

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