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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
3/50

泥の住所

 翌朝、被害者の指紋が照合された。

 ヒットしなかった。前科なし。つまり指紋による身元特定は、この時点で行き詰まった。

 菅野はそれを所轄の刑事から聞いた。電話越しに、刑事の声には疲れが滲んでいた。夜通し動いていたのだろう。「歯科記録も当たっています」と彼は言った。「ただ時間がかかる」

 「DNA鑑定は」

 「出すつもりですが、結果が出るまで早くて数週間です」

 菅野は電話を切って、ノートを開いた。

 三〇二号室に残されていた化粧品の銘柄を、昨日のうちに写真に収めていた。現場の鑑識写真と照合するには警察側のデータが必要で、それは今すぐには手に入らない。ただ、部屋にあったファンデーションは、ドラッグストアで数百円で買えるような種類のものだった。現場の女の顔に使われていたものも、同じような質感に見えた。それ以上のことは言えなかった。

 手がかりは部屋だけではなかった。

 菅野が次に向かったのは、南区の外れにある小さなビルだった。


 繁華街の一本裏手に入ったところに、そのビルはあった。

 外壁は白かったが、年季が入って薄汚れており、一階にはシャッターが下りたままのテナントがあった。看板の類は出ていない。エレベーターで三階まで上がると、ドアが一枚あった。呼び鈴を押すと、しばらくして鎖がついたままドアが開いた。

 隙間から、四十代とおぼしき男の顔が覗いた。

 「竹内さんから連絡もらってますか」と菅野は言った。

 男は菅野を数秒見てから、鎖を外してドアを開けた。

 貫井克己。このビルのオーナーで、朝倉汐里が働いていた店の管理責任者だった。

 竹内フミとは、かつて別の物件で顔見知りになったことがあるという話を、昨日の夜に竹内から聞いていた。「あまり付き合いたくない人ですが」と竹内は言っていた。「あの子が働いていたのがそこだと、管理会社から聞きました。どうやって知ったかは、あなたには言いません」

 菅野は理由を訊かなかった。


 部屋に通されると、ソファと応接テーブルがあった。事務所と呼ぶには狭く、自宅と呼ぶには物が少なかった。貫井は向かいに座り、最初から警戒した目で菅野を見ていた。

 「翠のことですよね」と貫井は言った。

 菅野は少し止まった。「翠」という名前が、すでに出た。

 「その名前で呼ばれていたんですか」

 「うちの店ではそうです」貫井は腕を組んだ。「本名では呼ばない。それがルールで」

 「いつからここで働いていましたか」

 「一昨年の秋ごろです。正確には覚えてない」

 「最後に会ったのは」

 「夏の終わりです。八月か、九月の頭か。そのへん」

 三〇二号室での最後の電話が七月末。貫井が最後に会ったのが八月から九月初旬。時系列は一応つながっていた。

 「突然来なくなったんですか」

 「そうじゃない」貫井は少し視線を外した。「こっちから、来なくていいと言った」

 「なぜ」

 「売上が落ちてた。それだけです」

 菅野はメモを取りながら、貫井の顔を観察した。四十代後半。かつては体格が良かったのだろうが、今は腹のあたりが崩れていた。目の下に隈があった。眠れていないのか、それとも以前からそういう顔なのか、この段階では判断できなかった。

 「事件のことは知っていますか」と菅野は訊いた。

 「ニュースで見た」

 「被害者が翠さんだという可能性については」

 「考えた」貫井は短く言った。「エメラルドの髪って書いてあったから」

 「警察には」

 「まだ行ってない」

 菅野は少し間を置いた。

 まだ行っていない、という言葉の重さを測っていた。知っていて行っていないのか、確信が持てないから行っていないのか。あるいは、行きたくない理由が別にあるのか。

 「行った方がいい」と菅野は言った。「身元確認の情報として、あなたの証言は重要です」

 「分かってます」

 「それでも行っていない」

 貫井は答えなかった。

 菅野はそれ以上その点を押さなかった。押す場面ではなかった。


 店で一緒に働いていた女性のことを訊いた。

 「礼香ですか」と貫井は言った。「まだここにいますよ。翠が辞めたあとも」

 「話を聞けますか」

 「本人に訊いてください。私から言える立場じゃない」

 貫井が部屋を出て、しばらくして戻ってきた。後ろに、女が一人ついてきた。

 佐野礼香。二十代後半から三十代の入口あたりに見えた。化粧は濃かったが、崩れていた。朝早い時間にここにいるということは、昨夜ここに泊まったのかもしれなかった。

 礼香はソファの端に腰を下ろして、菅野を見た。警戒というよりも、疲れた目だった。

 「翠のこと、聞きにきたんですよね」と彼女は言った。

 「はい」

 「死んだのが翠だと思ってます?」

 「まだ確認できていません」

 礼香は少し鼻で笑うような表情をした。笑いではなく、何かを吐き出すような仕草だった。

 「エメラルドの髪なんて、翠くらいしかいないですよ。この辺では」

 「髪の色は、最近変えていませんでしたか」

 「変えてない。あれ、すごくこだわってたから」礼香は窓の外を向いた。「変な子でしたよ、あの子は」

 「変な、というのは」

 「汚れないんです」礼香は平坦な声で言った。「ずっとここで働いてるのに、なんか汚れないんですよね。目が」

 菅野はその言葉を書き留めた。

 「仲は良かったですか」

 「普通です」礼香は即答した。「普通くらい。仲良くも、悪くも、なかった」

 「最後に会ったのは」

 「夏の終わりです。ここに来なくなる少し前。外で会ったのが最後」

 「どこで」

 「コンビニです。偶然」礼香は少し考えるそぶりをした。「疲れた顔してましたね。それだけ覚えてる」

 菅野は礼香の顔を観察した。翠のことをどう思っていたのか、この短い会話からは掴みきれなかった。「仲は普通」という言葉が、本当のことなのかどうか。

 それ以上は今日のところ引き出せないと判断して、菅野は立ち上がった。


 ビルを出ると、十一月の風が正面から来た。

 菅野はコートの前を閉じながら、来た道を戻った。

 貫井と礼香。二人とも、翠と呼ばれた女を知っていた。そして二人とも、警察にはまだ連絡していなかった。それぞれに理由があるのだろうが、今日のところはまだ推測の域を出なかった。

 菅野がこの仕事で学んだことのひとつは、最初に怪しいと感じた人間が、必ずしも一番怪しいわけではない、ということだった。そして逆に、何も感じなかった人間が、後になって全部を変えることがある。

 今日会った二人について言えば、どちらも何かを抱えているように見えた。ただそれは、人間が普通に持っているたぐいの秘密かもしれなかった。

 夕方になったら、もう一件当たるつもりだった。

 藤田正彦。翠の常連客だったという男。貫井が教えてくれた名前だった。詳しいことは話したがらなかったが、「あいつは本人に直接会いに行くくらいの客だった」とだけ言った。

 菅野はそれをメモしながら、どういう意味かを訊かなかった。

 今日は情報を集める日だった。判断するのは、もう少し後でいい。

 繁華街の手前で、菅野は足を止めた。

 向かいのビルのエントランスから、若い男が出てきた。二十代前半。スーツを着ていたが、どこか場違いな印象だった。この時間にこの場所にいる理由が、外見から読み取れなかった。

 男は菅野と目が合うこともなく、人の流れに溶けて消えた。

 菅野は特に何も思わなかった。

 繁華街の裏手には、いつも理由を持たない人間がいる。それは今に始まったことではなかった。

 菅野は歩き続けた。

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