表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
2/50

発光する死者

 午前九時を過ぎたころ、菅野は近くの喫茶店に入った。

 チェーン店だった。どこにでもある種類の店で、席の七割が埋まっており、窓際のカウンターでは作業用のノートパソコンを開いた男が一人、コードを書いているのか、文章を書いているのか、とにかく何かを黙々とやっていた。菅野はブレンドコーヒーを注文して、奥の四人席に一人で座った。

 ノートを開いた。

 現時点で分かっていることを、順番に書き出す。これは菅野が刑事だったころからやっている習慣で、手を動かすことで頭が整理される、という単純な理由からだった。

 被害者・女性・推定二十代前半。身元不明。財布なし、スマートフォンなし。エメラルドグリーンの髪。顔に損傷なし。化粧あり、丁寧に施されていた。死亡推定時刻は今夜中に出るだろう。発見場所・南区○○町、マンション非常階段脇路地。

 ここまで書いて、菅野は一度ペンを止めた。

 化粧、と書いた文字を見ていた。

 あの顔の印象が、まだどこかに残っていた。死体の顔というのは、生きている顔とは何かが違う。表情がないからではない。眠っている顔にも表情はないが、死体の顔はそれとも違う。どう違うのかを言語化するのは難しいが、長くこの仕事をやっていると、遠目からでも分かるようになる。

 それでもあの顔は、菅野の記憶の中で奇妙に発光していた。

 整えられていた、という事実が引っかかり続けていた。遺体の顔が整えられているというのは、それ自体として異常なことではない。事故死や病死ならば、発見されたときにすでに整えられているケースは少なくない。だが今回は、それ以外の部分の損傷が激しかった。そのコントラストが、どうしても頭から離れなかった。

 顔だけが、別の文脈に属しているように見えた。


 依頼人である老女、竹内フミは、菅野に依頼する理由を持っていた。

 話を聞いたのは現場から戻った直後、竹内の自宅だった。築三十年ほどの一戸建てで、廊下に観葉植物が並んでおり、全体に物が多かったが乱雑ではなかった。長く一人で暮らしている人間の家の匂いがした。

 竹内はマンションを二棟所有していた。亡夫が遺したもので、管理会社に任せているが、細かいことは自分で動いているという。南区のマンションには現在八世帯が入居していた。そのうちの一室、三〇二号室が、三ヶ月ほど前から賃料の振り込みが途絶えていた。

 「管理会社を通じて何度か連絡を取ったのですが」と竹内は言った。「電話も、手紙も、反応がないんです。ドアを開けることもできませんし」

 三〇二号室の入居者の名前は、賃貸契約書に「朝倉汐里」とあった。二十三歳、無職、と記載されていた。保証人は父親の名前だったが、その番号に電話しても繋がらなかった。

 「今朝のあの方が、朝倉さんなのかどうか」竹内は両手をテーブルの上に置いて、少し前傾みになった。「警察の方には話しましたが、調べていただけるのかどうかも分からなくて」

 菅野は「警察は動きます」と言った。「今回の事件の被害者の身元確認は、捜査の基本になりますから」

 「それでも」

 「はい」

 「それでも、お願いしたいんです」竹内は顔を上げた。「もしあの方が朝倉さんなら、ちゃんと教えてもらいたい。何かあったなら、知りたい」

 菅野は竹内の顔を見た。依頼の動機として、それは単純だった。しかし単純な動機ほど、本物であることが多い。

 引き受けます、と菅野は言った。


 喫茶店でコーヒーを飲み干してから、菅野は三〇二号室のことを考えた。

 鍵は管理会社が持っている。竹内から連絡を入れてもらえば、今日中に中に入れるはずだった。ただ、警察が先に動く可能性もある。身元確認のために、マンション周辺を当たることは十分あり得た。

 菅野はスマートフォンを出して、所轄に連絡を入れた。顔見知りの刑事に繋いでもらい、三〇二号室について話した。

 刑事は「確認します」と言って、電話を保留にした。少し待った。

 「うちも今日の午後、同じマンションに行く予定でした」と刑事は戻ってきてから言った。「同行はできませんが、管理会社への連絡は入れておきます。鍵を借りてください」

 「被害者の身元の進捗は」

 「まだです。指紋の照合はやっています。ただ、前科がなければ出てこない」

 「年齢の推定は」

 「二十代前半、というのが法医の見立てです。それ以上はまだ」

 菅野は礼を言って電話を切った。

 二十代前半。身元不明。エメラルドの髪。整えられた顔。

 名前のない女が、南区の路地で死んでいた。

 その女が朝倉汐里なのかどうかさえ、今はまだ分からなかった。


 午後、菅野は南区のマンションに戻った。

 管理会社の担当者が先に来ていた。三十代の男で、スーツが少し皺になっていた。「警察からも連絡もらいました」と彼は言い、エレベーターで三階まで上がった。

 三〇二号室のドアの前に立った。

 郵便受けには、何通か封書が刺さったままになっていた。宛名を見ると、「朝倉汐里」とあった。差出人は、どれも請求書や督促状のたぐいだった。

 担当者がドアを開けた。

 最初に来たのは、空気の匂いだった。

 締め切った部屋の、人の気配が消えて時間が経った匂い。生活の残り香とも言えるが、むしろ生活が終わったあとの匂いに近かった。黴びているわけではない。ただ古い。三ヶ月、あるいはそれ以上、誰も換気していない空間の匂いだった。

 間取りは1Kだった。六畳ほどの洋室に、ユニットバス、小さなキッチン。家具は最低限だった。ベッド、カラーボックス、折り畳みのテーブル。衣装ケースが二つ、積み重なっていた。

 菅野はゴム手袋をはめて、部屋の中を歩いた。

 テーブルの上には、化粧品がいくつか置かれていたままだった。ファンデーション、アイライナー、リップ。それらは使いかけで、蓋が閉められていた。日常的に使われていたものが、そのまま残されている印象だった。

 カラーボックスの中を見た。文庫本が数冊。ノート。ヘアケア用品の類。下の段に、小さな缶が一つ置かれていた。蓋を開けると、中には何も入っていなかった。以前は何かを入れていたのだろうと思ったが、それが何かは分からなかった。

 衣装ケースの上の段を引き出した。下着類、部屋着、タオル。普通の女の部屋にあるものが、普通にそこにあった。

 ただ、外出用の服がほとんどなかった。

 菅野はそれに気づいた。クローゼットを開けると、コートが一着かかっていた。薄手のもので、季節外れだった。それ以外には、薄いニットが一枚。

 外に出るときに着るような服が、この部屋にはほとんどなかった。

 仕事着が別の場所に置かれている可能性。あるいは、引き払う前にほとんどを持ち出している可能性。どちらもあり得た。

 菅野はユニットバスのドアを開けた。洗面台に、歯ブラシが一本あった。シャンプーとコンディショナーのボトルが、シャワーの脇に置かれていた。コンディショナーのボトルはほぼ空だった。

 洗面台の鏡の隅に、小さなシールが一枚貼られていた。

 星の形をした、安価な市販のシールだった。金色だった。

 菅野はそれをしばらく見ていた。

 誰がいつ貼ったのか分からないシールが、誰も使わなくなった洗面台の鏡の隅に、まだ貼られていた。


 部屋を出て、担当者と少し話した。

 朝倉汐里との最後のやり取りは、七月の末だったという。賃料の滞納を告げる電話に、本人が出て「来月には必ず」と言った。それが最後だった。

 「声の感じはどうでしたか」と菅野は訊いた。

 「どうって」担当者は少し考えた。「普通でした。ちゃんとした言葉遣いで、すみませんって言ってて。若い子だなとは思いましたけど」

 「若い子」

 「なんていうか、声が若かったです。あと、少し疲れてる感じがした」

 菅野はメモを取った。

 七月末に電話があった。それ以降、連絡が途絶えた。部屋には生活用品が残されている。急いで出ていったのか、あるいは出ていくつもりがなかったのか。

 まだ何も分からなかった。

 ただ、部屋に残された化粧品のことを菅野は思った。現場の女の顔に施されていたものと、同じ銘柄かどうかまでは確認できていない。それは後で照合すればいい。

 エレベーターで一階に降りながら、菅野は鏡の隅の金色の星を思い出していた。

 名前だけが、今のところ手がかりだった。

 朝倉汐里、二十三歳。

 その名前と、路地に倒れていた女が、同じ一人の人間であるかどうか。それすら、まだ確かめられていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ