発光する死者
午前九時を過ぎたころ、菅野は近くの喫茶店に入った。
チェーン店だった。どこにでもある種類の店で、席の七割が埋まっており、窓際のカウンターでは作業用のノートパソコンを開いた男が一人、コードを書いているのか、文章を書いているのか、とにかく何かを黙々とやっていた。菅野はブレンドコーヒーを注文して、奥の四人席に一人で座った。
ノートを開いた。
現時点で分かっていることを、順番に書き出す。これは菅野が刑事だったころからやっている習慣で、手を動かすことで頭が整理される、という単純な理由からだった。
被害者・女性・推定二十代前半。身元不明。財布なし、スマートフォンなし。エメラルドグリーンの髪。顔に損傷なし。化粧あり、丁寧に施されていた。死亡推定時刻は今夜中に出るだろう。発見場所・南区○○町、マンション非常階段脇路地。
ここまで書いて、菅野は一度ペンを止めた。
化粧、と書いた文字を見ていた。
あの顔の印象が、まだどこかに残っていた。死体の顔というのは、生きている顔とは何かが違う。表情がないからではない。眠っている顔にも表情はないが、死体の顔はそれとも違う。どう違うのかを言語化するのは難しいが、長くこの仕事をやっていると、遠目からでも分かるようになる。
それでもあの顔は、菅野の記憶の中で奇妙に発光していた。
整えられていた、という事実が引っかかり続けていた。遺体の顔が整えられているというのは、それ自体として異常なことではない。事故死や病死ならば、発見されたときにすでに整えられているケースは少なくない。だが今回は、それ以外の部分の損傷が激しかった。そのコントラストが、どうしても頭から離れなかった。
顔だけが、別の文脈に属しているように見えた。
依頼人である老女、竹内フミは、菅野に依頼する理由を持っていた。
話を聞いたのは現場から戻った直後、竹内の自宅だった。築三十年ほどの一戸建てで、廊下に観葉植物が並んでおり、全体に物が多かったが乱雑ではなかった。長く一人で暮らしている人間の家の匂いがした。
竹内はマンションを二棟所有していた。亡夫が遺したもので、管理会社に任せているが、細かいことは自分で動いているという。南区のマンションには現在八世帯が入居していた。そのうちの一室、三〇二号室が、三ヶ月ほど前から賃料の振り込みが途絶えていた。
「管理会社を通じて何度か連絡を取ったのですが」と竹内は言った。「電話も、手紙も、反応がないんです。ドアを開けることもできませんし」
三〇二号室の入居者の名前は、賃貸契約書に「朝倉汐里」とあった。二十三歳、無職、と記載されていた。保証人は父親の名前だったが、その番号に電話しても繋がらなかった。
「今朝のあの方が、朝倉さんなのかどうか」竹内は両手をテーブルの上に置いて、少し前傾みになった。「警察の方には話しましたが、調べていただけるのかどうかも分からなくて」
菅野は「警察は動きます」と言った。「今回の事件の被害者の身元確認は、捜査の基本になりますから」
「それでも」
「はい」
「それでも、お願いしたいんです」竹内は顔を上げた。「もしあの方が朝倉さんなら、ちゃんと教えてもらいたい。何かあったなら、知りたい」
菅野は竹内の顔を見た。依頼の動機として、それは単純だった。しかし単純な動機ほど、本物であることが多い。
引き受けます、と菅野は言った。
喫茶店でコーヒーを飲み干してから、菅野は三〇二号室のことを考えた。
鍵は管理会社が持っている。竹内から連絡を入れてもらえば、今日中に中に入れるはずだった。ただ、警察が先に動く可能性もある。身元確認のために、マンション周辺を当たることは十分あり得た。
菅野はスマートフォンを出して、所轄に連絡を入れた。顔見知りの刑事に繋いでもらい、三〇二号室について話した。
刑事は「確認します」と言って、電話を保留にした。少し待った。
「うちも今日の午後、同じマンションに行く予定でした」と刑事は戻ってきてから言った。「同行はできませんが、管理会社への連絡は入れておきます。鍵を借りてください」
「被害者の身元の進捗は」
「まだです。指紋の照合はやっています。ただ、前科がなければ出てこない」
「年齢の推定は」
「二十代前半、というのが法医の見立てです。それ以上はまだ」
菅野は礼を言って電話を切った。
二十代前半。身元不明。エメラルドの髪。整えられた顔。
名前のない女が、南区の路地で死んでいた。
その女が朝倉汐里なのかどうかさえ、今はまだ分からなかった。
午後、菅野は南区のマンションに戻った。
管理会社の担当者が先に来ていた。三十代の男で、スーツが少し皺になっていた。「警察からも連絡もらいました」と彼は言い、エレベーターで三階まで上がった。
三〇二号室のドアの前に立った。
郵便受けには、何通か封書が刺さったままになっていた。宛名を見ると、「朝倉汐里」とあった。差出人は、どれも請求書や督促状のたぐいだった。
担当者がドアを開けた。
最初に来たのは、空気の匂いだった。
締め切った部屋の、人の気配が消えて時間が経った匂い。生活の残り香とも言えるが、むしろ生活が終わったあとの匂いに近かった。黴びているわけではない。ただ古い。三ヶ月、あるいはそれ以上、誰も換気していない空間の匂いだった。
間取りは1Kだった。六畳ほどの洋室に、ユニットバス、小さなキッチン。家具は最低限だった。ベッド、カラーボックス、折り畳みのテーブル。衣装ケースが二つ、積み重なっていた。
菅野はゴム手袋をはめて、部屋の中を歩いた。
テーブルの上には、化粧品がいくつか置かれていたままだった。ファンデーション、アイライナー、リップ。それらは使いかけで、蓋が閉められていた。日常的に使われていたものが、そのまま残されている印象だった。
カラーボックスの中を見た。文庫本が数冊。ノート。ヘアケア用品の類。下の段に、小さな缶が一つ置かれていた。蓋を開けると、中には何も入っていなかった。以前は何かを入れていたのだろうと思ったが、それが何かは分からなかった。
衣装ケースの上の段を引き出した。下着類、部屋着、タオル。普通の女の部屋にあるものが、普通にそこにあった。
ただ、外出用の服がほとんどなかった。
菅野はそれに気づいた。クローゼットを開けると、コートが一着かかっていた。薄手のもので、季節外れだった。それ以外には、薄いニットが一枚。
外に出るときに着るような服が、この部屋にはほとんどなかった。
仕事着が別の場所に置かれている可能性。あるいは、引き払う前にほとんどを持ち出している可能性。どちらもあり得た。
菅野はユニットバスのドアを開けた。洗面台に、歯ブラシが一本あった。シャンプーとコンディショナーのボトルが、シャワーの脇に置かれていた。コンディショナーのボトルはほぼ空だった。
洗面台の鏡の隅に、小さなシールが一枚貼られていた。
星の形をした、安価な市販のシールだった。金色だった。
菅野はそれをしばらく見ていた。
誰がいつ貼ったのか分からないシールが、誰も使わなくなった洗面台の鏡の隅に、まだ貼られていた。
部屋を出て、担当者と少し話した。
朝倉汐里との最後のやり取りは、七月の末だったという。賃料の滞納を告げる電話に、本人が出て「来月には必ず」と言った。それが最後だった。
「声の感じはどうでしたか」と菅野は訊いた。
「どうって」担当者は少し考えた。「普通でした。ちゃんとした言葉遣いで、すみませんって言ってて。若い子だなとは思いましたけど」
「若い子」
「なんていうか、声が若かったです。あと、少し疲れてる感じがした」
菅野はメモを取った。
七月末に電話があった。それ以降、連絡が途絶えた。部屋には生活用品が残されている。急いで出ていったのか、あるいは出ていくつもりがなかったのか。
まだ何も分からなかった。
ただ、部屋に残された化粧品のことを菅野は思った。現場の女の顔に施されていたものと、同じ銘柄かどうかまでは確認できていない。それは後で照合すればいい。
エレベーターで一階に降りながら、菅野は鏡の隅の金色の星を思い出していた。
名前だけが、今のところ手がかりだった。
朝倉汐里、二十三歳。
その名前と、路地に倒れていた女が、同じ一人の人間であるかどうか。それすら、まだ確かめられていなかった。




