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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
泥濘の聖母
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少女の輪郭

 十一月の、まだ夜が明けきらない時間帯というのは、どこの街でも似たような匂いがする。濡れたアスファルトと、前の晩から残った揚げ物の脂と、それから何かが燃えたあとのような、正体のない焦げ臭さ。

 菅野昭吾が南区の路地に足を踏み入れたのは、午前五時四十分ごろだった。

 規制線はすでに張られていた。規制線というものは、いつ見ても妙に几帳面で、黄色と黒のテープがピンと張られた内側だけが、世界から切り取られたように別の時間を生きている。野次馬はまだ二、三人しかいなかった。こんな時間に起きているのは、ごみ収集車の作業員か、夜勤明けの人間か、あるいは眠れない理由を持つ人間くらいのものだ。

 連絡をくれたのは、以前の仕事で顔見知りになった所轄の刑事だった。電話口で彼は「とにかく来てくれ」とだけ言った。それ以上は言わなかった。

 現場は路地の突き当たり、外壁が剥げかけたマンションの非常階段の脇だった。

 女が一人、倒れていた。

 菅野は規制線の外から、しばらくそれを見ていた。

 最初に目に入ったのは、髪の色だった。エメラルドグリーンという表現が正しいのかどうかわからないが、とにかく緑がかった色で、地面に散らばっていた。人工的な色だった。美容師が時間をかけて作り上げたような色ではなく、もっと安価な、それでも本人がこだわりを持って選んだであろうことが想像できる色。その髪が、コンクリートの上にきれいに広がっていた。

 きれいに、という表現は正確ではないかもしれない。整えられていた、という方が近い。

 顔は損傷していなかった。それだけは、離れた位置からでも分かった。

 見知らぬ刑事が近づいてきて、菅野の依頼人の名前を確認した。菅野は自分の名刺を渡し、規制線をくぐることを許可された。近づいて、初めて全体が見えた。

 見なければよかった、とは思わなかった。

 ただ、何かが引っかかった。

 顔と、それ以外の部分が、別の事件の被害者のように見えた。そういう印象を持った。顔は生きていた。正確には、顔だけが手入れされていた。薄化粧ではあるが、ファンデーションが丁寧に伸ばされており、睫毛が整えられていた。髪は梳かされた形跡があった。

 なのに、それ以外は。

 菅野はそこで視線を外した。見るべきものは見た。

 鑑識が何人か動いており、カメラのシャッター音が静かな路地に響いていた。

 「身元は」と菅野は横にいた刑事に訊いた。

 刑事は少し間を置いてから答えた。「まだです」

 「財布は」

 「なかった」

 「スマートフォンは」

 「なかった」

 菅野はもう一度、女の顔を見た。

 二十代だろう、という印象だった。それ以上のことは分からなかった。これだけ若ければ、指紋が照合されるかもしれない。あるいは歯の記録が残っているかもしれない。しかし今この瞬間、ここに横たわっているのは、名前のない女だった。

 名前のない女が一人、南区の路地に倒れている。

 それだけが事実だった。

 「発見者は」

 「通報は四時過ぎです。ごみ出しに来た住人が見つけた」

 「何号室」

 「隣のマンションの住人です。このマンションとは関係ない」

 菅野は周囲を見回した。外壁のマンション、その非常階段、剥がれかけた掲示板、路地の奥に消えていく暗がり。防犯カメラは見当たらなかった。路地の入口まで戻れば一台あるかもしれないが、この角度からは確認できなかった。

 「依頼人はどこにいますか」と菅野は訊いた。

 刑事が顎で示したのは、規制線のさらに外、街灯の光が届かない場所に立っている人影だった。小柄な老女だった。コートの前を両手で押さえながら、こちらを見ていた。

 菅野は規制線を出て、老女のところまで歩いた。

 彼女はこのマンションの管理人だった。といっても常駐しているわけではなく、週に数回掃除と郵便の確認に来るだけだという話を、後になって聞いた。今朝ここに来たのも、たまたまごみ収集の日だったからで、偶然が重なったにすぎない。

 「あの方は」と老女は言った。声が震えていた。「うちのマンションの方ですか」

 菅野は少し考えてから「分かりません」と答えた。

 「分からないんですか」

 「まだ、誰だか分かっていないんです」

 老女はしばらく黙っていた。それから「そんなことがあるんですね」と言った。責めているわけではなく、ただ驚いているようだった。「あんなに若い方なのに」

 菅野は何も言わなかった。

 空が少しずつ白み始めていた。東の方角から、光というよりも闇の薄まりが広がってくる時間帯。鑑識の動きは続いていた。路地に停まったパトカーの無線が、かすかに聞こえていた。

 女の名前は、この時点では誰も知らなかった。

 年齢すら、まだ推定の域を出なかった。

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