保険と悪意
貫井克己が警察に連絡を入れたのは、菅野が二度目の訪問をした翌日のことだった。
菅野が改めて促したわけではなかった。貫井の方から電話があって、「昨日、所轄に行ってきた」と短く報告してきた。それだけ言って、電話を切ろうとした。
「少し話を聞かせてもらえますか」と菅野は引き止めた。
沈黙があった。
「また来るんですか」と貫井は言った。
「電話で構いません」
また沈黙があった。今度は少し長かった。
「いいでしょう」と貫井は最終的に言った。
電話で話したのは、三十分ほどだった。
菅野が訊きたかったのは、事件当夜の貫井の行動だった。前回の訪問では、その点を詳しく聞いていなかった。
「店にいました」と貫井は言った。「夜の八時から、十二時前まで」
「ずっと店の中に」
「ほぼ。途中で外に出たことはあります」
「何時ごろですか」
「十時前後だったと思います。少しの間だけ」
「どこへ行きましたか」
「近くのコンビニです。飲み物を買いに」
菅野はメモを取った。十時前後、コンビニへ。それだけでは何も言えなかった。ただ、貫井がどの程度のことを話す気でいるかは、このやり取りで測れた。
「店の経営状況について聞かせてもらえますか」と菅野は言った。
少し間があった。
「普通です」
「翠さんが辞める前後から、売上に変化はありましたか」
「少し落ちました」貫井は言った。「彼女は指名が多かったので」
「店の経営に影響が出るくらいの落ち込みでしたか」
「それほどでもない」
菅野は次の質問を選んだ。直接的に踏み込む場面ではないと判断した。
「このビルは貫井さんの所有ですか」
「そうです」
「保険には入っていますか」
一瞬の間があった。ほんの短い間だったが、菅野は聞き逃さなかった。
「入っています。普通の火災保険です」
「ほかには」
「ほかには何も」
菅野は「分かりました」と言って、その話題を終わりにした。
貫井は少し安堵したような気配があった。電話越しでも、それは伝わることがある。
保険という言葉に、貫井は一瞬だけ引っかかった。それが何を意味するのかは、今の段階では分からなかった。菅野は記憶の中に、その一瞬を留めておいた。
夕方、礼香に電話した。
最初の訪問から数日が経っていた。礼香は電話に出たが、最初は「今忙しい」と言った。菅野が「五分だけ」と言うと、少しの間があってから「分かった」と答えた。
「翠さんと、最後にコンビニで会ったと言っていましたね」と菅野は言った。
「ええ」
「その前に、店で何かありましたか。翠さんとの間で」
長い沈黙があった。
「なんで分かるんですか」と礼香は言った。
「分かったわけじゃないです。訊いているんです」
また沈黙。
「少し揉めました」と礼香は最終的に言った。「揉めた、というか。私が一方的に言ったことで」
「どんなことを」
「余計なことを」礼香は言った。声が少し固くなった。「彼女に言うべきじゃないことを、言いました」
「具体的に教えてもらえますか」
「あなたはいつまでも汚れないふりをしているけれど、私たちと同じなんだ、ということを言いました」礼香は早口で言った。言葉を早く終わらせたいような言い方だった。「ここで働いていれば、みんな同じになる。なのにあなただけ、どこか別の場所にいるような顔をしている。それが嫌だった」
菅野はメモを取りながら聞いた。
「翠さんの反応は」
「何も言いませんでした。ただ、黙って私を見ていた」礼香は息を吐いた。「その目が嫌だった。責めているわけじゃないのに、責められているような気がして」
「それはいつのことですか」
「夏の終わりです。彼女が来なくなる少し前」
「コンビニで会ったのはその後ですか」
「そうです。一度だけ、偶然会って。気まずくて、少しだけ話しました。翠は普通に挨拶してきた。何もなかったみたいに」礼香は言った。「そういうところも、嫌いでした」
「今は」と菅野は訊いた。
「今は」礼香は繰り返した。少し時間があった。「分かりません。嫌いだったのは本当だけど、こうなるとは思っていなかった」
菅野は「ありがとうございます」と言って電話を切った。
佐野礼香。汐里への悪意は本人も認めている。ただ、その悪意は直接的な暴力とは質が異なるように見えた。憎しみというよりも、鏡を見せられることへの拒絶に近かった。
それが事件と繋がるかどうかは、別の問題だった。
その夜、菅野はノートを広げて、容疑者四人の情報を並べた。
貫井克己。店のオーナー。事件当夜に「少しの間」外に出ている。保険という言葉に一瞬引っかかった。倒産した工務店主という過去。経営状況は「普通」と言うが、その言葉の重さが測れない。
佐野礼香。同僚。汐里への悪意を持っていた。ただ、その悪意の種類が暴力的かどうかは判断できない。夏の終わりに言い合いがあり、その後コンビニで偶然会っている。
藤田正彦。常連客。横領三百万。九月三日が最後の接触。拒絶された男。ただし、今日の段階では暴力的な気配を感じていない。
岡崎湊人。幼馴染。事件当夜に言い合い。隣人が通報。警察がすでに事情聴取済み。動機と機会が最も揃っている。
菅野はそれぞれの名前を見比べた。
四人全員が、汐里の「生」に関わっていた。四人全員が、それぞれの形で彼女を追い詰めていた。そしてその中で、警察の目が最も向かいやすいのは、事件当夜に現場近くで言い合いをしていた岡崎湊人だった。
それは正しい判断かもしれなかった。
しかし菅野は、四人以外のことも考えていた。
翠という女を知っていた人間は、この四人だけではないはずだった。店の客は複数いた。彼女の生活に関わった人間は、もっといるかもしれなかった。
ただ、今の段階では手が届かない領域だった。
菅野はノートの余白に、一行だけ書いた。
「顔を整えた者が、顔を知っていた者とは限らない」
書いてから、少し考えて、その一行に線を引いた。
消したわけではなかった。ただ、まだ判断する段階ではないと思った。
窓の外で、風が鳴っていた。十一月の終わりが近づいていた。




