白い封筒
翌朝、菅野は起きてすぐに封筒を開けなかった。
コーヒーを淹れた。飲んだ。窓の外の四月の空を見た。それから、机の前に座った。
白い封筒が、昨夜と同じ場所にあった。
ペーパーナイフで開けた。
中に、便箋が二枚入っていた。罫線のある、普通の便箋だった。字は小さく、整っていた。拘置所の中で書かれた字だった。
読んだ。
菅野昭吾様
手紙を受け取っていただいてありがとうございます。
謝罪を書くつもりはありません。謝罪は、私が書くべき言葉ではないと思っています。書いたとしても、届く場所がない。
説明も書くつもりはありません。説明できる言葉が、私にはありません。それは取調べでも言いました。
ただ、一つだけ書きたいことがあります。
予備校で汐里さんと過ごした一年間のことです。
彼女は、私の話をよく聞いてくれました。私が悩んでいると、隣に座って、黙って聞いていた。解決しようとするわけでも、励ますわけでもなく、ただ聞いていた。
あの頃の私は、その聞き方が何を意味するのか、分かっていませんでした。ただ、隣にいてくれることが、嬉しかった。
彼女が来なくなったとき、理由を探しました。自分が何かしたのかと思いました。ただ、理由は分からなかった。
七年後、接待の席で顔を見たとき、同じ顔でした。年を取っていたけれど、同じ顔でした。ただ、笑い方が違っていた。
私は、あの笑い方を知っていた。あの不器用な笑い方を、私だけが知っていた。
それが、私を狂わせたのだと思います。今は、そう思っています。
ただ、狂っていたと言うことで、やったことが変わるわけではない。それも分かっています。
一つだけ、確認させてください。
彼女は笑っていましたか。整えた顔は。
拘置所の面会で、菅野さんは「眠っているようでした。穏やかな顔でした」と言ってくれました。
それで十分です。
ただ、もう一度だけ確認したかった。
お手数でなければ、返事をください。手紙でも、何でも構いません。返事がなくても構いません。
柏木京介
菅野は便箋を二枚読み終えて、机の上に置いた。
しばらく、その便箋を見ていた。
謝罪ではなかった。説明でもなかった。
柏木が書きたかったのは、予備校の一年間のことだった。そして最後に、もう一度だけ確認したかったのは、整えた顔が穏やかだったかどうか、という一点だった。
菅野はその確認の意味を考えた。
穏やかだったと確認することで、何を確かめたかったのか。
自分のやったことが、「救済」だったという確認か。あるいは、汐里が苦しまなかったという確認か。
どちらでもあるかもしれなかった。
どちらでもないかもしれなかった。
菅野には判断できなかった。
午前中かけて、菅野は返事を書くかどうかを考えた。
書く、という選択と、書かない、という選択が、どちらも同じくらいの重さで並んでいた。
書かないことも、答えだった。
書くとすれば、何を書くか。
菅野は便箋を出して、ペンを持った。
長い間、何も書かなかった。
それから、短く書いた。
柏木京介様
手紙を読みました。
整えた顔は、穏やかでした。眠っているようでした。笑ってはいなかったけれど、穏やかでした。
それが、あなたへの答えです。
一つだけ、私からも伝えます。
汐里さんは、来年の春に隣県へ引っ越すつもりでした。待っていた人がいました。その計画は、本物でした。
彼女は自分で出口を見つけていました。
それが、あなたへの私からの言葉です。
菅野昭吾
書いてから、菅野はその手紙を読み返した。
短かった。ただ、これ以上書くことは、菅野にはなかった。
整えた顔は穏やかだった。それは事実だった。
汐里は出口を見つけていた。それも事実だった。
その二つの事実を、柏木に伝える。それだけが、菅野に書けることだった。
封筒に入れた。宛名を書いた。
拘置所の住所を調べて、書いた。
午後、郵便局まで歩いて、出した。
郵便局を出て、菅野は春の街を歩いた。
桜が咲いていた。
四月の初め、桜が満開に近かった。街路樹の桜が、風に揺れていた。花びらが少し落ちていた。
菅野は歩きながら、桜を見た。
汐里が目指していた春だった。
隣県の、小さな町に向かうはずだった春。中村幸枝が待っていた春。石に刻まれた名前の上に、今年も来た春。
菅野は立ち止まった。
桜の下に立って、空を見上げた。
花びらが一枚、菅野の肩に落ちてきた。
菅野は払わなかった。
しばらく、そのまま立っていた。
花びらが、やがて地面に落ちた。
菅野は歩き始めた。
手紙は、届く。
届いた後、柏木がどうするかは、菅野には分からなかった。
ただ、伝えるべきことを伝えた。
それで、菅野の仕事は終わった。
桜の花びらが、春の風に乗って、街を流れていった。




