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外套を貸した女  作者: 埼玉県産 紅生姜
終焉の救済
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伝言

 柏木が起訴されたのは、四月の初めだった。

 殺人罪。菅野はニュースで確認した。テレビではなく、スマートフォンの記事で。短い記事だった。被告の名前と、罪状と、次回公判の日程だけが書かれていた。

 菅野は記事を読んで、スマートフォンを置いた。

 四月だった。

 汐里が来年の春に引っ越すつもりだと、中村幸枝に書いたのが去年の十月だった。来年の春、というのは今年の春だった。

 その春が来ていた。


 午前中、柏木の弁護士から電話があった。

 「柏木から、菅野さんへの伝言があります」と弁護士は言った。

 菅野は少し止まった。「どんな伝言ですか」

 「手紙を書きたいと言っているんです。菅野さんに。ただ、送っていいかどうか確認してほしい、ということで」

 「手紙」

 「はい。受け取っていただけますか、という確認です。受け取らないなら、書かない、ということで」

 菅野は少し考えた。

 「受け取ります」と菅野は言った。

 「分かりました。伝えます」

 電話を切った。

 柏木が手紙を書く。

 何を書くのか、菅野には分からなかった。謝罪かもしれなかった。説明かもしれなかった。あるいは、そのどちらでもない何かかもしれなかった。

 来るまで分からなかった。


 昼過ぎ、菅野は湊人に電話した。

 「柏木が起訴されましたね」と湊人は言った。電話に出てすぐに。

 「ニュースで見ましたか」

 「見ました」湊人は言った。「複雑な気持ちです」

 「どう複雑ですか」

 「良かったとは思っています。ただ、それだけではない」湊人は少し間を置いた。「汐里が戻ってくるわけじゃないので。何が解決したのか、まだよく分からなくて」

 「解決したことと、解決しなかったことが、両方あります」と菅野は言った。「誰がやったかは分かった。なぜそういうことが起きたかは、裁判で少し分かるかもしれない。ただ、汐里さんが来年の春に間に合わなかったことは、変わらない」

 「そうですね」湊人は言った。「ただ」

 「ただ」

 「俺が汐里のことを覚えている。それは変わらないとも思っています」

 菅野は「そうですね」と言った。

 「仕事に戻りました」と湊人は言った。話題を変えるような言い方ではなかった。ただ、今自分がいる場所を告げているような言い方だった。「建設の現場に。体を動かしていると、少しだけ楽です」

 「そうですか」

 「菅野さん、また話せますか。いつか」

 「いつでも」と菅野は言った。

 電話を切った。


 夕方、菅野は礼香にメッセージを送った。

 「柏木が起訴されました」

 しばらくして返信が来た。

 「見ました。翠、知っていたかな。あの人が自分を好きだったこと」

 菅野は少し考えてから、返信した。

 「知らなかったと思います。ただ、何かを感じていたかもしれない」

 礼香から返信が来た。

 「翠が汚れきらない目をしていたのは、そのせいかも。誰かが自分の向こう側を見ていると、うっすら感じていたから」

 菅野はその返信を読んだ。

 誰かが自分の向こう側を見ている。その感覚を、汐里は持っていたかもしれなかった。

 ただ、その「誰か」が誰なのかは、分からなかった。

返信はしなかった。


 夜、菅野は藤田からも短い連絡を受けた。

 「起訴のニュース、見ました。これで、一区切りということでしょうか」

 菅野は返信した。「裁判が続きます。ただ、方向は決まりました」

 藤田から返信が来た。

 「翠が来年の春を目指していたこと、今でも時々考えます。間に合わなかったけれど、向かっていた。それが、彼女についての一番大事なことだと思っています」

 菅野はその返信を読んだ。

 間に合わなかったけれど、向かっていた。

 藤田が、そういう言い方で汐里を覚えていた。

それで十分だと、菅野は思った。


 深夜、菅野は手紙が来ることを考えた。

 柏木が書く手紙。

 受け取る、と答えた。その答えが正しかったかどうか、菅野には判断できなかった。

 ただ、向き合うことを途中でやめる、ということが菅野にはできなかった。

 柏木が手紙を書くなら、受け取る。読む。それが、この仕事の最後の仕事だった。

 仕事、と呼んでいいかどうかも、分からなかった。

 竹内フミの依頼は、とっくに終わっていた。

 ただ、菅野個人として、続いていた。

 それが何のためなのかは、まだ分からなかった。

 分からないまま、続けるしかなかった。

 窓の外で、四月の風が鳴っていた。

 春が深くなっていた。


 数日後、手紙が来た。

 拘置所の消印が押された、白い封筒だった。

 宛名は「菅野昭吾様」と書かれていた。字は小さく、整っていた。

 菅野は封筒を手に取って、しばらく持っていた。

 開けなかった。

 今日は開けないことにした。

 机の上に置いて、電気を消した。

 春の夜の闇の中に、白い封筒があった。

 明日、開ける。

 菅野はそう決めて、眠った。

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